チャイコフスキーは自殺か?他殺か?~死の直前にした謎の行動とは一体なんだったのか | 謎カレンダー

チャイコフスキーは自殺か?他殺か?~死の直前にした謎の行動とは一体なんだったのか

11月6日
チャイコフスキーは《悲愴》の初演から数日後の1893年11日6日に急死した。
長い間、その死因は生水を飲んでコレラになったためといわれてきた。 でも、コレラは伝染病である。なのに病床のチャイコフスキーは隔離されず、葬儀の際に、遺体に触れた人も感染していない。 つまり、死因は別にあったことになる。




今までの定説~伝染病による死


「悲愴」交響曲初演の4日後の1893年11月1日、チャイコフスキーは、
アレクサンドル劇場で芝居を見た帰り、真っ赤な顔をしてレストラン・ライナーに入り、
「ネヴァ水(ネヴァ川の水)をくれ」と言った。

ボーイが驚いて「今コレラが流行っているから、ミネラル・ウォーターしか差し上げられません」と
答えたら、彼は周囲がびっくりするほど興奮して「ぐずぐず言わずに注文通り早く持って来い!」と
怒鳴りつけ、運ばれてきたネヴァ水を一気に飲み干した。

1970年代までは、これがチャイコフスキーの最後だと信じられてきた。
しかしここにはおかしな点がいくつもある。

?第1の疑惑:通常のコレラの潜伏期から考えて、感染後5日で死亡というのは短すぎる。

?第2の疑惑:コレラ患者の周りに、立ち会った人数が16人というのは異常に多すぎる。 

コレラが大量の死者を出す恐るべき伝染病であることは当時から知られていた。
激しい下痢、嘔吐、排尿で脱水症状を起こし、治療を施さない場合死亡率は50%を越える。

感染力が非常に強いので、患者は隔離され、布団は焼かれ、家は徹底的に検疫されるし、患者の遺体は鉛の棺に収められる。 これは当時の常識ともなっていた。

ところがチャイコフスキーの場合、布団は燃やされず、洗われただけ。 それどころか遺体も死後二日間も公開して安置され、葬儀の日にはあらゆる階級から多数の市民が弔問に集まり、遺体の手や顔に口づけをしたとされている。 

遺作「交響曲第6番《悲愴》」の謎


チャイコフスキー最後の作品となった,交響曲第6番「悲愴」。
この「悲愴」というタイトルの意味するところを巡っても謎が残っている。
自筆総譜の表紙に記されたロシア語の「патетическая(パテティチェスカヤ)」は、辞書をひくと、日本語の「悲愴」というニュアンスとはちがって、「情熱的、感情のこもった」という意味が示されている。

この曲のテーマとして作曲者自身は「人生について」としか語っていない。リムスキー=コルサコフの回想によれば、初演の際、演奏会の休憩中にチャイコフスキーにその点を確かめてみた時には「今は言えないな」と答えたと言う。


「悲愴」とうつの関係


チャイコフスキーは26歳から52歳までの間に12回のうつ病期を経験したという。
悲愴作曲時には過去を思い浮かべたのか、それとも当時もうつ病を患っていたのか、うつ的な精神状態を曲に反映させているのではないかと言う説がある。

ドイツの精神科医ミューレンダールは、精神病院の入院患者に対して各種の音楽を聞かせるという実験を行なったが、悲愴を流した場合、特に内因性うつ病患者の症状が悪化し、患者によっては自殺しようとしたとのことである

もう一つの説・毒物による自殺説



そこで浮上してきたのが、毒物による自殺説だった。
それによると、ある貴族が、 自分の甥と関係をもったチャイコフスキーを皇帝に告発しようとして、それを知った法律学校の同級生たちが告発を事前にストップ。 同性愛者と知れたらシべリア流刑は確実である。
そこで彼らは、告発される前に名誉の自殺をするようチャイコフスキーを説得し、毒を渡したというのだ。 

これは1978年に、当時ソ連にいた女流音楽学者アレクサンドラ・アナトリエヴナ・オルローヴァが発表した驚くべき研究報告に基づいた説となっている。



自殺を強要された?~オルローヴァ女史の説


ある貴族が自分の甥とチャイコフスキーの関係(同性愛)を皇帝に告発し、困った皇帝は、この件の処理を検事総長に任せた。
検事は、法律学校の同窓生チャイコフスキーが同性愛という破廉恥な罪で母校の名誉を傷つけたことで怒り、また、ロシアの大作曲家としてのチャイコフスキーのブランド・イメージを守る必要も感じていた


そこで検事は秘密法廷を開き、チャイコフスキーに「名誉の自殺を求める判決」を言い渡す。 
自殺用の毒薬(砒素?)は後日判事が届けることになった。 チャイコフスキーは真っ青になって震えながら検事の家から飛び出していった。

第6交響曲を書いている最中のチャイコフスキーは、かつてないほど自信に満ちていた。 
第1楽章を4日足らずで書き終えた時、「私は人生のうちで今ほど充実し、誇らしく、幸せなことはなかったと誓って言えます」と出版社に書き送っている。

ところが秘密法廷の直後から、チャイコフスキーは抑鬱状態となったといわれている。 
交響曲のリハーサルの時、彼の顔色は真っ青で、

「チャイコフスキーは妙にぼんやりしているように見えた。 悪寒が彼の体を走った。 彼はただ指揮者になりきろうと焦っていて、中断し、訂正したり、何か集中できなかった。 時折彼はオーケストラに向かって、愛情を込めて弾いてくれ、これが私の告別の曲だとは思わないかい、永遠の別れだと? と訴えているようであった。」(クルト・パーレン)




チャイコフスキーがこの交響曲のタイトルを弟モデストと相談して「パテティチェスキー(悲愴)」に決め、出版社ユルゲンソンに宛てて指示したのは、初演わずか2日後だった。 

チャイコフスキーの抑鬱状態はひどくなり、閉じ込もって独り言をぶつぶつつぶやいたり、すすり泣いたり、囚人のように部屋をうろつき回るようになった。
書類を整理し、遺言状に目を通し、……そして、毒薬を持った死神は、11月5日の夜に現れた。

そして、チャイコフスキーは遂に毒を飲む。 兄の苦しみに驚いた弟モデストが医者を呼んだものの、砒素を飲んだのでは手の施しようがない。 4時間後、「悲愴」の作曲者は、封建的なロシア上流社会の掟に従い、“悲愴”な死を遂げた。

とはいえ、この説を否定する声も多く、死因はいまだに謎である。



■現存するチャイコフスキーの肉声(1890年)




<録音内容>

アントン・ルービンシュタイン(友人の作曲家で有名ピアニスト):素敵な録音機だね
ブロック(録音技師):そうでしょ
ローレンフスカヤ(歌手) :本当ね、どうやって録音するか試しましょうよ
サフォノフ (歌手)    :♪ (音階を歌う)
チャイコフスキー :そのトリルはもっとうまくいくよ
ローレンフスカヤ :♪
チャイコフスキー :ブロックはすごいよ!でもエジソンってすごいやつだな
ローレンフスカヤ :アハ♪ アハ♪
サフォノフ     :モスクワのチャイコフスキー君です
チャイコフスキー :誰が言ったの?サフォノフっぽいなー。 (口笛を吹く)

ちなみにこの録音機は、エジソンが発明したもの。

この3年後、謎の死をとげるチャイコフスキー。
死因はいまだに謎のまま。

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