UFOの父?それとも稀代のペテン師?コンタクティの先駆者ジョージ・アダムスキーが空飛ぶ円盤と遭遇した日 | 謎カレンダー

UFOの父?それとも稀代のペテン師?コンタクティの先駆者ジョージ・アダムスキーが空飛ぶ円盤と遭遇した日

11月20日
ジョージ・アダムスキー(1891年-1965年)は「コンタクティ他の惑星の知的生命体と個人的に接触,会話したと主張する人々」の元祖として知られる
彼が撮影した空飛ぶ円盤は、現在のいわゆる「空飛ぶ円盤」の典型的なイメージとなった
1952年11月20日、その彼がモハーベ砂漠で出会ったという宇宙人とは?



■コンタクティの元祖ジョージ・アダムスキー




ポーランドに生まれたジョージ・アダムスキーはのちにアメリカに一家で移住。
その後、アメリカ合衆国陸軍騎兵隊に入隊したり、イエローストーン国立公園の管理人をやったり、ポートアイランドで製粉所の労働者として働いたりしていたという。1930年代に「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」(日本語訳だと、「チベットの高貴なる騎士団」)という宗教団体を設立した。1949年には、宇宙旅行を扱ったSF小説「宇宙のパイオニア」を書いたが売れず、1950年代初期に、アダムスキーは空飛ぶ円盤に遭遇したと主張しはじめたという。


1952年11月20日にモハーヴェ砂漠で何が起きたのか?




1952年11月20日の出来事である。
その日、アダムスキーが友人やジョージ・H・ウィリアムスン夫妻と共にモハーヴェ砂漠にいると、巨大な円筒形状の飛行体が出現した。それが自分を探していると感じたアダムスキーは車で人気のない場所へ移動した。そしてその飛行体から発進した銀色の円盤が着陸したという。
その後アダムスキーは皆と別れ一人で歩くと、一人の人間に遭遇した。身振りとテレパシーとで彼が宇宙人だと理解した。その宇宙人は金星人で、核実験への懸念をアダムスキーに伝えた。
このとき仲間のジョージ・H・ウィリアムスンは金星人の足型を石膏でとったという。
金星人は写真撮影を拒み、先ほどアダムスキーがUFOを撮影したネガホルダーを要求し、それを持ってUFOに乗り込み去って行った。この事件はすぐに新聞報道され、世間に衝撃を与えた。

■さらに空飛ぶ円盤の撮影に成功?




翌月の1952年12月13日には、アダムスキーは円盤の写真を撮影することに成功した。
このとき撮影された空飛ぶ円盤は、「アダムスキー型」と呼ばれ、これ以降世界各地で目撃され写真が撮影された。アダムスキーが撮影した写真は、反射望遠鏡のレンズで直接撮影(カメラを取り付けて)されたものであるので、カメラの望遠レンズで撮影されたものとは異なり、中央部にピントが合い、周辺はボケている。


さらにこのとき、UFOは先日のネガホルダーを落としていったという。このネガを現像すると、撮影したUFOの代わりに奇妙な記号や文字が写されていたという。(写真)
その後もアダムスキーは、他の宇宙人に会ったと主張している。会った宇宙人は、ほとんどが金星人だが火星人や土星人もいたという。また、巨大な円筒形状の宇宙船(母船)に乗り月を一周したときには、月の裏側で谷や都市、草原を走る動物を見たとの主張をした。

■果たして真実は?


11月20日の宇宙人との遭遇に関してもなぜに偶然にしても、足形をとる石膏の一式を所持していたのか?」などの疑問が早くから指摘されていた。
また彼が宇宙人と会見した際に、他の目撃者たちは遠く離れていたために、双眼鏡で見ていた一人を除いて他の者たちは宇宙人を確認しておらず、円盤も光としてしか見えていなかったという。

その上に、全員が上空の円盤すら目撃していない。ジェロルド・ベイカーという青年が後日アダムスキーのところで撮影したとされている円盤写真については、ベイカー自身は「勝手に名前を使われてしまった。円盤なんか撮影していない」と証言している


宇宙人の宇宙船で月や火星、金星などを訪れるという話は、1949年に自分が書いたSF小説「宇宙のパイオニア」の内容にそっくりであった。(写真:金星人の男性オーソンを描いたとされる絵)
いわゆるアダムスキー型円盤の写真も、単純なトリック写真であることが明らかにされている。
また、1959年にソビエト連邦が打ち上げたルナ3号が月の裏側の写真を初めて撮影した際、アダムスキーはそれをインチキ写真だと非難したという。

このように後年になってから批判の対象とされたアダムスキーだったが、UFOコンタクティー(を自称する人)の中では最も有名なため、現在も彼を狂信する人達が全世界にいる。
何よりも彼の創りだした「空飛ぶ円盤」のイメージは、現在のSFに計り知れない影響を今も与えているのは事実である。

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