航海史上最大の謎「メアリー・セレスト号」が発見された日~消えた乗組員とフォスダイク文書とは | 謎カレンダー

航海史上最大の謎「メアリー・セレスト号」が発見された日~消えた乗組員とフォスダイク文書とは

12月4日
メアリー・セレスト号Mary Celeste)は、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船である。現在も航海史上最大の謎とされている。その後見つかった「フォスダイク文書」やコナン・ドイルの小説などによって、さまざまに脚色されたこの事件の真相とは?


■無人の漂流船が発見される

(メアリー・セレスト号の船長:ベンジャミン・ブリッグズ)


1872年12月5日(4日)の午後、ジブラルタルに向けてリスボンから西に700kmほど離れた大西洋上を航海中のイギリス船「デイ・グラシア号」のモアハウス船長は、一隻の奇妙な帆船が漂流しているのを発見した。

モアハウスは、船に呼びかけ、信号を発したが、船からは何の返事も無く、船上に人影すら見当たらない。船体には、「メアリー・セレスト(Mary Celeste)」とあった。モアハウスはこの船を知っていた。彼はブリッグズ船長(写真)と友人で、出帆前に会食をしたばかりか、ニューヨーク港では互いの船を隣り合わせに接岸していたからである。
船の乗組員は、ブリッグズ船長とその妻セアラ、2歳の娘ソフィアに、乗務員7人を加えた計10人。

モアハウスは船員にメアリー・セレスト号を調べさせた。
船は浸水をしているわけでもなく、良好な状態であるように思われたが、誰も乗っていなかった。

■無人の船内と残されたもの




前ハッチも食料貯蔵室も共に開いており、掛時計は機能しておらず、羅針盤は破壊されていた。
六分儀とクロノメーターは失われており、船が故意に遺棄されたことを示唆していた。

この船唯一の救命ボートは無理矢理引き離された、というよりも故意に降ろされていたようだった
3つの手すりに謎めいた血痕があり、1つの手すりには説明のできない引っかき傷があった。
また、血まみれの刀剣(に見えたが、実際は赤錆だった)が船長の寝台の下に隠されていた。


■謎の書き置きと朝食のあと?


船内の様子をさらに調べる内に、次々と奇怪なことが分かった。 無人で漂流していたマリー・セレスト号の、船長室のテーブルにあった朝食は、食べかけのままで暖かく、コーヒーはまだ湯気を立てており、調理室では、火にかけたまま鍋が煮立っていた。

船員の部屋には、食べかけのチキンとシチューが残っていた。洗面所には今までヒゲを剃っていたような形跡があり、ある船員の部屋には血のついたナイフが置いてあった。 

そして船長の航海日誌には、
『12月4日、我が妻マリー(本によってはファニー)が』
と走り書きが残っていた。

救命ボートも全部残っており、綱をほどいた形跡もなかった。
船の倉庫には、まだたくさんの食料や飲み水が残っていた。
積荷のアルコールの樽も置かれたままで、盗難にあった様子はなかった。 

ここまでがメアリー・セレスト号の乗組員失踪事件として語られる内容となっている。


■果たして真相は?




メアリー・セレスト号の乗組員と、同乗していた船長の家族は、共に消息は全くわかっていない。彼らの運命を巡って多くの意見が出された。
もっとも有力な説としては、積み荷として運んでいたアルコールの9つの樽から漏れがあり、船倉内で靄(もや)が出るほどになった。そこで船長が船が爆発すると考え、救命ボートで逃げ出した、という説だ。
また、乗員間の暴動でブリッグズが殺害され、家族は救命ボートに逃げたとする説、船は海上で発生する漏斗雲をもつ竜巻の様な暴風雨(水上竜巻)に遭遇したとする説などもある。

また、実際にはデイ・グラチア号の船員は、後の調査で「朝食が用意がされていた」という事は全く無かったと証言しており、これは後付されたデマである。救命ボートがすべてそのまま残っていたとする話も伝えられているが、これも後に創作されたものである。


また、このメアリー・セレスト号の事件が有名になった背景は、シャーロック・ホームズシリーズの作者コナン・ドイルが、1884年、『J・ハバクック・ジェフソンの証言』(J.Habakuk Jephson's Statement)というメアリー・セレスト号乗組員失踪事件に基づいたフィクションを書いたこともあった。
マリー・セレスト号事件についてのこの短編小説が『コーンヒル・マガジン』1月号に匿名で投稿掲載され評判になったのだ。

■事故の40年後に発表された「フォスダイク文書」とは?



メアリー・セレスト号が見つかって40年あまり後のこと、アベル・フォスダイクという人物の手による文書が発表された。この文書は、フォスダイクの死後、友人であるハワード・リンフォードによって発見され、1913年ストランド・マガジンに掲載されたという。
フォスダイクは何らかの理由で早くアメリカを去らねばならず、友人であったブリッグズ船長に頼んで同乗していたとされている。


このフォスダイク文書には奇妙な経緯が語られている。
日記形式の文書によれば、船長は部下に対して「人間は服を着たまま泳げるのか」という素朴な疑問を投げかけたという。
ブリッグズ船長は甲板から外へ飛び出し、証明のためにその辺りをふざけて泳ぎ回った。これが乗組員に受けて、7人の乗組員のうち数人が続いて海に飛び込んだ。
その間ブリッグズ船長の妻と子供、フォスダイク、二人の船員は特別デッキに上がって眺めを楽しんでいた。そのとき突然、泳いでいた一人の船員が苦しそうに叫んだ。フォスダイクらが見ると、彼はサメに襲われており、すぐに海に沈んでいったという。残りの乗組員も特別デッキに上がって何が起こっているのかよく見ようとしたが、ちょうどその時、特別デッキが壊れて海に投げ出されてしまい、こうしてメアリー・セレスト号には誰もいなくなったというのである
偶然デッキの破片の上に墜落したフォスダイク以外全員がサメに襲われフォスダイクはそのまま漂流してアフリカの海岸にたどりついた、という話だ。

しかし、この話も事実との相違が多く、真実とはされていない。

■スペインに流れ着いた救命ボートとは



1873年初めに、スペイン沿岸に2隻の救命ボートが上陸したと報じられた。
1隻には1人の遺体とアメリカ合衆国国旗が、もう1隻には5人の遺体があった。これがメアリー・セレスト号の乗組員の残留物であるか否かについては全く調査されなかったと言われているが、事実は今も謎のままである。

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