第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」には謎の”偶然の符号”がいくつもあった?~「呪いの赤いベンツ」伝説と怪僧ラスプーチンの死 | 謎カレンダー

第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」には謎の”偶然の符号”がいくつもあった?~「呪いの赤いベンツ」伝説と怪僧ラスプーチンの死

6月28日

1914年のこの日、オーストリア=ハンガリー帝国の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボを視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
俗にいう「サラエボ事件」である。この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

しかし、この事件の背景には、奇妙な符号がいくつも存在していた。
司祭の見た予知夢や、ロシアで同日に起きた暗殺事件、そして、呪いのベンツの謎とは?

サラエボ事件

暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付 

オーストリア皇太子フェルディナンド大公は妻のゾフィーをともない、ボスニアの首都サラエボにやってきた。大公夫妻の14回目の結婚記念日で、ドライブが目的だった。

大公夫妻は、オーストリア第5師団長ポチオレック将軍と2名の護衛と共に、6人乗りオープンの特注車に乗り込んだ。


血のような赤で塗られた、当時最新式のベンツ540である。
車が走り出した午前10時過ぎ頃に、4台からなる車列が動き出すや、2番目にいた大公夫妻の乗るベンツに、民衆の中からバラの花束が投げ込まれたのだという。

しかし、花束から煙が出ている事に気づいた皇太子は、とっさに沿道にそれを捨てたところ、後続の車が通った時に爆発したという。
この爆発事件により、大勢の怪我人が出たにもかかわらず、大公夫妻は無事だったので、車はスピードを上げて市庁舎に向かった。


ガブリロ・プリンツィップ

爆発事件が起きたことからフェルディナント大公は予定を変更し、爆発で怪我をした者を見舞いに病院へ向かうことにした。

その時ひとりの男が飛び出して、拳銃を乱射し、大公夫妻を撃ち殺した。
止めるひまもない暗殺劇だった。犯人はその場で逮捕。ガブリロ・プリンツィップ(写真上)というセルビア人愛国者だった。

犯人のプリンツィップは、食事を摂るために立ち寄った店の前の交差点で、病院へ向かう大公の車が道を誤り方向転換をした事で、プリンツィプはその車に大公が乗っている事に偶然気がついたのだという。
ちょうどサンドイッチを食べた後だった彼は、ピストルを取り出して、車に駆け寄り、1発目を妃ゾフィーに、2発目を大公の首に撃ち込んだ。大公夫妻はボスニア総督官邸に送られたが、2人とも死亡した。

この事件を受けて、オーストリア政府は、皇太子が死んだ責任は、ろくに警備を敷いていなかったセルビアにあるとして宣戦を布告した為、この暗殺事件、世に言う「サラエボ事件」をきっかけとして、死者2000万人にも及んだ第一次世界大戦が勃発する事になった。

呪いのベンツの始まり



一方、大公夫婦が乗っていたベンツは暗殺事件の後、車に同乗していたポチオレック将軍の手に渡った。

前線で指揮をしていた彼は、3個師団を失う等の作戦ミスが重なり、責任の重圧から精神を患って入院し、ベンツ入手の20日後にそのまま死亡してしまったという。
次にベンツは、ポチオレック将軍の参謀を務めていたドスメリア大尉の手に渡るも、その9日後に、彼は運転中に農夫2人を轢き殺し木に激突し、首の骨を折って死亡した。

さらに、第一次世界大戦後には、ユーゴスラビアの州知事がベンツを修復して改良を施し、、4ヶ月で4度の事故を起こして右腕を失ったという。
知事は「この車には死神がついている」と言って、車の解体を命じる程に恐れたというが、彼の友人のスリキスという医師が解体に反対し、タダ同然でベンツを譲り受けた。
が、その6ヶ月後に、路上で転覆したベンツの下敷きになっているスリキスの遺体が発見されたという。

さらに続く悲劇
 


その後ベンツは、オランダ人の宝石商の手に渡ったが、1年後に彼は謎の自殺を遂げた。

次にある医者がベンツを所有したが、次々と死者が出ているベンツの呪いを恐れて患者が遠のいたので、ベンツは仕方なくサミレスというスイス人のカーレーサーに売り飛ばされたという。

サミレスは呪いなぞ信じず、すぐにレース用に改造したベンツでアルプス・ドロミテのロードレースに参加したが、そのレース中に横転して投げ出され、石壁を越えて5m下に叩き付けられ首の骨を折り、やはり死亡した。

更にベンツはドイツの実業家の手に渡ったが、そのわずか2日後に、彼も石壁に衝突して死んだのだという。

▲サラエボ事件の現場

さすがにこの頃には噂が広まっており、ベンツの買い手はなかなか現れなかったが、巡り巡ってサラエボに住むゴルシェという農場主が買い取ったという。

しかし、やはりその数ヶ月後のある朝、彼はエンストして動かなくなったベンツを町で修理する為、通りかかった荷馬車で引っ張っていたところ、急にベンツが暴走し、荷馬車にぶつかって横転させ、ゴルシェと荷馬車の持ち主は死んでしまったという。

その後、ベンツは修理工場に運ばれ、そこの経営者であるタイバー・ハーシュフィールドが所有する事になった。
彼はベンツの血の様な赤色を不吉に思い、明るい青色に塗り替えた。
ある結婚式に呼ばれた際、5人の友人と一緒に走行していた彼は、途中で急にベンツが暴走して、対向車に正面衝突し、ハーシュフィールドとその友人4人とも死亡した。

その後、ベンツは再び修理されたが、誰も欲しがる者がいなかった為、やがてオーストリア政府に接収され、ウィーン博物館に展示される事になった。

案内係のカール・ブルナーは、ベンツをとても気に入り、大切に管理したそうだが、第二次世界大戦の開戦で、連合軍の爆撃によってウィーン博物館は破壊されたという。

サラエボ事件前の予知夢とは



▲大公夫婦の葬儀の様子

さらにサラエボ事件にはほかにも偶然の一致とも思われる不思議な事が起きていた。

1914年の6月26日にバルカン半島のヨシフ・デ・ラニー司祭は夢を見たのだという。
それは親しくしていたオーストリア帝国の皇太子であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が車の座席にて至近距離より射殺された夢だった。

その夢はさらに続く。
司祭の書斎テーブルの上にはオーストリア帝国の大公家の紋章を拝した黒枠の手紙が置いてあり、文面には下記のように書かれていたという。

「………殿、妻と私はサラエボにて政治犯の犠牲になりました。貴殿(司祭)の祈りに私し達をゆだねます。1914年6月28日午前4時、サラエボにて」………

翌日、実際にサラエボ事件が起きたというのだ。

ロシアで起きたもう一つの不可解な死

▲ラスプーチン

第一次大戦の引き金となった「サラエボ事件」で、オーストリアに宣戦を布告された弱小国セルビアは、列強国のひとつロシアに支援してもらうことでオーストリア・ドイツ連合に対抗するしか道はなかった。
そして当時帝国だったロシアは、他の列強国と違って皇帝ニコライ二世に国家権力が集中しており、ニコライ二世の決定にすべてがかかっていた。

このロシア皇帝ニコライ二世に、かねてから「オーストリアの関わる戦争に介入するのを避けるように」と進言していた男がいたという。皇帝がこの男の言う通りにしていれば、確かに世界大戦は回避できたのだという。

しかしサラエボ事件が起きた1914年6月28日、その男グレゴリー・ラスプーチンは故郷ポクロフスク村で暗殺者に刃物で刺され、ひん死の重傷を負う。これにより、ニコライ二世への戦争回避の進言は不可能となった。

こうして、ニコライ二世はセルビアの要請を受けて全面動員を決定、大戦への幕開けとつながったと言われている。

サラエボ事件の真相とは?

▲大公夫妻

大公夫妻の暗殺犯プリンツィプは確かにセルビア人だったが、オーストリア領のボスニア州に住んでいた。

また、セルビア政府が彼に暗殺を指令したり、援助をした証拠も無く、それどころかセルビアの宰相は、テロ組織が動いている情報を得て、オーストリア政府に通達していたのである。

ならば、オーストリア政府は大公夫妻のサラエボ訪問を中止してもいい様なものだし、また、わざわざ危険を教えてくれたセルビア政府に宣戦布告するのはおかしい。

この事から、オーストリア政府は暗殺される事が分かっていて、わざと大公夫妻をサラエボにやったのではないかと言われている。

どうやら、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、甥にあたる皇太子が女官と身分違いの結婚をして以来、彼と不仲になっていたらしく、また、ボスニアではセルビア系住民の民族運動が激しくなっていた為、セルビア政府を屈服させる必要が出てきていたと思われる。
そこで、セルビアに宣戦布告する口実として、故意に大公夫妻を暗殺させたとも考えられるのである。

呪いのベンツの真相


▲ウィーン軍事史博物館

実は、「呪われたベンツ」には後日談がある。
呪われたベンツは、実は現存している。実際には、何台もの人の手に渡ったという都市伝説になっていたというのだ。
実際の車両はウィーン軍事史博物館に保存展示されている。

都市伝説に使われるベンツ540シリーズは1936年に登場した車であり、1914年のサラエボに存在する訳が無いのだ。
またサラエボ事件に使われたこの車は、実際にはベンツですらなく、 オーストリアの自動車メーカーGraef & Stift社のoffener Tourenwagenという車なのだという。



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