最古の聖書写本「死海文書」の解読が遅れた理由はある権力のせいだった!?世界の秘宝の在りかを示す「銅の巻物」と”幻の一巻”とは? | 謎カレンダー

最古の聖書写本「死海文書」の解読が遅れた理由はある権力のせいだった!?世界の秘宝の在りかを示す「銅の巻物」と”幻の一巻”とは?

1月28日

1947年の春。中東の死海近くの洞窟である古い巻物が発見された。
それは後に”20世紀最大の考古学的発見”と言われる「死海文書」であった。

しかし、この歴史的な写本の発見から二年がたっても、考古学者たちは写本の出所である洞窟の発見にすら至っていなかった。

1949年の1月28日、ベルギー人将校フィリップ・リッペンス大尉らがベドウィンから情報を得てようやく第1洞窟と呼ばれる洞窟を発見する。

以降、周辺の洞窟から次々と約850巻もの古書が見つかった。
そして次第にこの歴史的な写本の全容が明らかになっていくこととなる。

はたして行方不明になっていた幻の「神殿の巻物」の内容とは?



死海文書が発見される


▲死海文書が発見された洞窟の一つ

ことの起こりは1947年(1946年という説もあり)の春。
中東の死海の北西岸、「クムラン」と呼ばれる地域で、3人のベドウィンの羊飼いの少年たちが逃げた羊を捜していた。「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」、とのちに少年たちは語ったとも言われている。

少年たちそこで、ある洞窟に入り込み、不思議な巻物を発見した。

▲「死海文書」が入っていたとされる壺


それは、高さ60センチほどの壷であった。数は10個。中を見てみると、奇妙な文字の書かれた多数の巻物が出てきたという。
ところどころちぎれ、すえた臭いを発しているところから見て、相当古い物のようだった。
しかし、埃を払って良く見ると、記された文字は、まるで昨日書かれたかのように鮮明だったのである。しかも、巻物の表面は滑らかで、艶めいてさえいた。


少年たちはとりあえず、それらを持ち帰った。これが、今世紀最大の発見と称される『死海文書』の、最初の発見となる。

現代でも謎のままの防腐処理技術




巻物は、同じ年の3月にエルサレムの聖マルコ修道院の大主教アタナシウス・イェシュア・サミュエリの手に渡った。

巻物を一目見て、大主教は我が目を疑った。そこに書かれていたのは、2000年も前に死語になった古代ヘブライ語だったのである。となると、当然この巻物は、少なくとも2000年以上も前の物ということだ。


ためしに、彼は巻物の端を切り取って焼いてみた。すると、皮革の焦げる臭いに混じって、これまで嗅いだ事の無い奇妙な匂いが立ち込めたという。

この巻物には、何らかの防腐処理が施されているのではないか。2000年も前の物でありながら文字が鮮明なのは、その為かもしれない。

しかし、多くの古文書に接してきた彼も、このような防腐処理のことなど聞いたことが無かった。
その後、写本の価値が見直されていく段階においても、巻物表面に施された防腐処理剤だけは、いかなる化学分析をもってしても、その成分は突き止められなかったと言われている。

最古の聖書の写本と判明



「死海文書」の内容は、いずれも古代ユダヤ教の聖典群で、『旧約聖書』の代表的予言書である「イザヤ書」の2つの立派な写本をはじめ、多くの『旧約聖書』の写本が含まれていた。

これらの写本は、それまでに知られていた主要なヘブライ語写本よりも1000年近くも古い物であり、『旧約聖書』の研究においては、画期的な意味を持つ物であった。

だが、更に興味深いのは、写本の中にこれまでいかなる文献にも登場したことがなく、聖書学の専門家でさえその存在を知らなかった、謎の文書群が含まれていたことだ。

このことから、「キリスト教の知られざる事実を知る手がかりになるのでは」と一気に期待が高まり、一部では「財宝の隠し場所が記されているのではないか」と指摘する声も上がった。

1951年にはヘブライ語聖書の専門家のドミニコ会司祭 ド・ヴォーの指揮によるヒルベト・クムランの本格的な発掘調査も開始された。
調査チームはそこで洞窟にあったものと同じタイプの壷を発見された。調査は1956年まで断続的に続けられたが、第二次中東戦争の勃発(1956年10月29日)によって中止された。遺跡の最後の調査は1958年に行われている。

このように、次々と写本は発見されたが、次第にある「幻の書物」の存在が、うわさされるようになる。発見されているにもかかわらず、どこかに隠されている書物があるというのだ。
それが「神殿の巻物」と呼ばれる幻の一巻だった。

幻の一巻「神殿の巻物」とは

▲幻の書「神殿の巻物」

”重大な秘密が記された巻物がもう一巻あるのでは?”

その噂は、実はベツレヘムの闇市場の有力者が「幻の一巻」を隠しもっているのではないか、というものだった。

その人物とは、1947年にベドウィンの少年が発見した巻物を最初に持ち込んだ靴屋のイスカルダル・シャヒンのことだったと言われている。

軍の秘密基地に捕えられたシャヒンは激しい拷問を受け、ついにシャヒンの自宅で幻の一巻と呼ばれた巻物が見つかった。


1977年、ついに幻の一巻を読み解いた内容が公表された。
その際、発見された巻物を「神殿の巻物」と名づけたことも同時に公表されたという。

「神殿の巻物」の名前の由来は、巻物の約半分近くが”エルサレムの神殿に関する記述”で埋めつくされていたからだといわれている。

「神殿の巻物」には、神殿とその祭壇の建設についての指示が細かく述べられ、次いで神殿の内庭・中庭・外庭・門・城塞に付属する部屋の設備などについて説明されているという。

つぎに「祭日と犠牲の手続」が、さらに「外庭で食される供物についての知識と規則」が述べられる。その後、「王権に関する規定」「祭司や預言者に関する規定」「共同体構成員の保護規定」へとつづいている。

「神殿の巻物」がほかの「死海文書」と大きく異なる点は、その内容が、「直接、神の口から預言者であるモーゼに語られた」という形式をとっていることだ。

大部分が「旧約聖書」の写本である死海文書の中でも、この「神殿の巻物」の部分は、「旧約聖書」には記述がなく、そのほかにも、「旧約聖書」にはない記述が見つかった。

「旧約聖書」には書かれていない予言



死海文書には、「旧約聖書」の写本である部分と、聖書には記述のない予言の部分に分かれている。その聖書の記述がない部分が下記となる。(一部)

・「宗規要覧」:『死海文書』を製作した教団内の宗規であるとともに、「世の終わりの集まったイスラエルの全会衆のための規律である」と記されており、、終末時の地獄の業火が象徴的に描写されている。

・「感謝の詩編」:20の詩編からなる。宇宙的な規模の破局を描いた壮大な叙事詩であり、来るべき人類の破滅が描写されているという。

・「戦いの書」:「光の子」と「闇の子」と呼ばれる2派の戦いが記されている。

・「ハバクク書注解」:『旧約聖書』にある予言書「ハバクク書」の注解という形をとる予言書。

・「外典創世記」:ヘブライ語の方言の一つ、アラム語で書かれている。『旧約聖書』の「創世記」の物語の異本。

・「神殿の巻物」:神がモーセを召して命じた言葉に始まり、次にモーセがイスラエルの全会衆に語った決別の言葉が続く。

・「銅の巻物 (3Q15) 」… 第3洞窟で発見された。銅板に刻まれた文字は、死海文書の中で唯一職業的書記の手によらないもので、各地の宝物の隠し場所が書かれているという。

世界60か所にある宝を示す「銅の巻物」とは


▲「銅の書物」

死海文書の中でも世界の秘宝の場所を示すとされる「銅の書物」。

これは、羊皮紙やパピルスではなく、薄い銅版に文字を刻んで巻物のように丸めたものであった。(写真上)

この巻物には非常に具体的に宝の隠し場所が書いてあったという。宝の隠し場所は巻物によると60か所はあるようだ。
しかし多くの人がこの物語に引き寄せられ宝を探したが、いまだに発見には至っていないという。専門家たちによると、ローマ人がすでに銅版に書かれている宝はすべて持ち帰ったあとではないかという説もある。

死海文書は一体、誰が書いたのか?


では、これら膨大な死海文書を書いたのは一体誰だったのか?

数ある説のなかでも、「クムラン教団」と呼ばれる人々によって、死海文書が書かれたという説が一番の有力な説とされている。

「クムラン教団」とは、紀元前2世紀なかば、律法を忘れて悪行を行う人々から離れ、都市部を離れて過酷な環境の中で、信仰を守ろうとしたユダヤ教の一派と言われている。

彼らは、死海文書が見つかった遺跡ヒルべト・クムラン周辺は、荒野であったが、この砦に彼らは水道や沐浴場、食堂などを備えた建物を作り、生活していたといわれている。

一説によると、当時エルサレムを支配していたハスモン朝(紀元前140年頃から紀元前37年までユダヤ(イスラエル)の独立を維持して統治したユダヤ人王朝)が、ダビデ王家の出身ではないのに、首長のようにふるまったこと、本来就けないはずの大司教職に任命され、それらを独占したことに反発し、クムランの荒野で隠遁生活をいとなみながら、死海文書の写本を書いたといわれている。

紀元前 68 年、彼らの書いたとされる文書はローマ軍の侵攻から守るために死海沿岸にあるユダヤ砂漠の11の洞窟に隠されたことが分かっている。

バチカンによる陰謀説とその後



1950年には最初の死海文書の公刊が行われた。

DJD(『ユダの荒野の発見物』叢書)は第一巻(1955年)、第二巻(1961年)、第三巻(1962年)、第四巻(1965年)、第五巻(1968年)と続けて出版され、第六巻(1977年)と第七巻(1982年)が思い出したように出版されたが、その作業は1960年代以降、遅々として進んでいなかった。

この一向に進まない解読にはバチカンの力が及んでいるのではないかと言われている。
一部ではバチカン(キリスト教の総本山)にとって都合の悪い事が書かれていたから公開が阻止されたのではないか」という陰謀説までまことしやかに囁かれていた。

▲イスラエルの「死海文書写本館」

しかし、これらはすべて噂にすぎず、1992年には新委員長のトーヴによって全てのクムラン資料のマイクロフィルム版が出版された。

40年間でわずか7冊のみであった、旧委員長のド・ヴォー及びその後継者の下で遅々として進まなかったその後の死海文書の刊行は、トーヴのもとで劇的に進行し、1995年から2000年までに第8巻から第38巻(5年間に30冊)が一挙に刊行された。

第39巻は2002年、第40巻が2009年に出版されてようやく全作業が終了した。


現代によみがえった「死海文書」


2011年9月27日。
長きにわたって謎とされてきた死海文書が「死海文書オンラインコレクション(英)」としてすべて公開された。
このプロジェクトは、エルサレムのイスラエル博物館 が主催し、Google が技術協力したといわれている。

1965 年から、同文書はエルサレムにあるイスラエル博物館の聖典聖堂にて展示されていたが、これにより、世界中の人が、デジタル化された5つの死海文書を自由に閲覧し、読むことが出来るようになった。

The Digital Dead Sea Scrolls



参照:死海文書砂漠からウェブへ、死海文書オンラインコレクション死海文書
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