近代科学の父とも言われる、イギリスの偉人アイザック・ニュートンが書き残したと言われている
「賢者の石の作り方」を書いた写本が、アメリカのオークションに出品された。
万有引力を発見し、物理学・天文学・数学などさまざまな分野において多大なる功績を残したアイザック・ニュートンは、実は当時「オカルティスト」としても有名だった事実はあまり知られていない。
経済学者のケインズは、「ニュートンは理性の時代(age of reason)の最初の人ではなく、最後の魔術師だった」と言っている。
ニュートンは、すべての錬金術士が夢見たと言われる『賢者の石』と、
不老不死の万能薬である「エリクシール」の精製方法を編み出し、
さらに、聖書に隠された暗合を研究し、”ある予言”を残したといわれている。
そんな「ニュートンの秘密の書」にかかれていた、人類に関する重要な予言とは?
”アイザック・ニュートン”の生い立ち
「木からリンゴが落ちるのを見て引力に気が付いた…」という有名なエピソードにより、よく知られるアイザック・ニュートンは、ニュートン力学の確立や微積分法の発見などの偉業を成し遂げ、17世紀の偉人に数えられている。
アイザック・ニュートンは、1643年1月4日にイングランドのリンカーンシャー州にある小さな村で生まれた。予定よりも2~3カ月早く生まれたため、1リットル程の器に収まりそうなくらい小さな赤ん坊だったと母親は語っていたという。
父は、ニュートンの生まれる3ヶ月前に死去。3歳のときに母は近隣の牧師と再婚。ニュートンは祖母に養育されることになり、幼くして両親の愛を知らない子となった。
独りで研究するほうが向いていそうなニュートンだったが、1667年にケンブリッジに戻り、1696年まで数学教授などを歴任した。
その後、精神に不調をきたし、大学職をやめてしばらく自宅に引きこもる生活が続いたが、教え子が財務省大臣になったことをきっかけに、造幣局での仕事を得る。
造幣局に勤めてからもニュートンは研究に没頭していたといわれているが、このときに没頭していた研究が、錬金術の研究だったと言われているのだ。
米国ペンシルベニア州を拠点とするNPO「化学遺産財団」が2016年2月にある写本を購入した。
この17世紀の写本は、もともと個人が所有していたものだったが、ニュートンが17世紀の錬金術師で「ボイルの法則」で知られるロバート・ボイル(1627~1691)に化学を教示した、ハーバード大学の化学者でもあったジョージ・スターキーの著作を書き写したものだった。
写本が今ごろになって再発見されたのは、一つには1888年にニュートンの母校である英国ケンブリッジ大学が、ニュートンの錬金術の関連文書については保管を拒否したためだといわれている。
文書は1936年にオークションで、総額わずか9000ポンドほどで売却され、その多くが個人の手に渡り、学術的な研究は難しくなっていた。
この、ニュートンの手書きによる文書は、アメリカ人錬金術師が考案したものを写したもので、水銀の製法が記されている。
ラテン語で記された原稿のタイトルは「Preparation of the [Sophick] Mercury for the [Philosophers'] Stone by the Antimonial Stellate Regulus of Mars and Luna from the Manuscripts of the American Philosopher(アメリカ人錬金術師による、火星と月由来のアンチモン質の放射状金属を使用した、賢者の石を作るための水銀の調合方法)」であった。
テキストはただの書き写しではなく、そこにニュートン自身の別の実験結果も書き留められていた。
ニュートンは写本のテキストに書き込みをすることがよくあるため、今回も、鉛鉱物を使った実験手順がメモされており、これはニュートンの錬金術に関する理解内容を示しているものなのだという。
では賢者の石とは一体なんなのだろうか。
「賢者の石」とは、卑金属を金に変える触媒と考えられていたもので、不老不死の薬「エリクサー」を作る材料になるものとも思われていた。
父は、ニュートンの生まれる3ヶ月前に死去。3歳のときに母は近隣の牧師と再婚。ニュートンは祖母に養育されることになり、幼くして両親の愛を知らない子となった。
ニュートンの生家
母は、ニュートンの才能に気づいていなかったが、親類がその才能に気がついてくれたこともあり、12歳のときに学校に入学。
ニュートンは、体が小さく内向的だったため、からかいの的であった。
しかし、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に自信をもつようになり、学年で首席の成績をとるようになった。
しかし、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に自信をもつようになり、学年で首席の成績をとるようになった。
子どもの頃から実験好きで、ネズミが走って回し車を回すと実際に粉が挽ける小さな粉挽き機などの模型を造って、遊んでいたといわれている。
▲トリニティ・カレッジ
ニュートンが、1661年にケンブリッジ大学に入学した当初は優秀な学生とはいえなかったと言われている。
1665年、腺ペストの流行で大学が一時休校となり、ニュートンはリンカーンシャーの実家に戻って2年間を過した。落ちるリンゴを見てひらめいたのはこの時で、後にニュートンはこの期間を“創造的休暇”と呼んでいる。 独りで研究するほうが向いていそうなニュートンだったが、1667年にケンブリッジに戻り、1696年まで数学教授などを歴任した。
その後、精神に不調をきたし、大学職をやめてしばらく自宅に引きこもる生活が続いたが、教え子が財務省大臣になったことをきっかけに、造幣局での仕事を得る。
造幣局に勤めてからもニュートンは研究に没頭していたといわれているが、このときに没頭していた研究が、錬金術の研究だったと言われているのだ。
オカルティストだったニュートン
▲『自然哲学の数学的諸原理』(プリンシピア)
ニュートンの死後残された蔵書1624冊のうち、数学・自然学・天文学関連の本は259冊で16%であるのに対して、実は、神学・哲学関連の本は518冊で、倍の32%であったといわれている。
しかし、ニュートンが科学者のみならず、哲学者として聖書研究や錬金術研究も重視し、熱心に研究を行い努力していたという事実はやがて忘れられてしまうことになった。
ニュートン自身は、現代人が言うところの"科学的"研究の成果よりも、むしろ古代の神秘的な英知の再発見のほうが重要だと考えていたといわれている。
そのニュートンが研究していたといわれる「賢者の石」の写本が、2016年になってから数十年ぶりに陽の目を見ることになった。
発見されたニュートンの写本
米国ペンシルベニア州を拠点とするNPO「化学遺産財団」が2016年2月にある写本を購入した。
この17世紀の写本は、もともと個人が所有していたものだったが、ニュートンが17世紀の錬金術師で「ボイルの法則」で知られるロバート・ボイル(1627~1691)に化学を教示した、ハーバード大学の化学者でもあったジョージ・スターキーの著作を書き写したものだった。
写本が今ごろになって再発見されたのは、一つには1888年にニュートンの母校である英国ケンブリッジ大学が、ニュートンの錬金術の関連文書については保管を拒否したためだといわれている。
文書は1936年にオークションで、総額わずか9000ポンドほどで売却され、その多くが個人の手に渡り、学術的な研究は難しくなっていた。
この、ニュートンの手書きによる文書は、アメリカ人錬金術師が考案したものを写したもので、水銀の製法が記されている。
ラテン語で記された原稿のタイトルは「Preparation of the [Sophick] Mercury for the [Philosophers'] Stone by the Antimonial Stellate Regulus of Mars and Luna from the Manuscripts of the American Philosopher(アメリカ人錬金術師による、火星と月由来のアンチモン質の放射状金属を使用した、賢者の石を作るための水銀の調合方法)」であった。
『賢者の石』の作り方
テキストはただの書き写しではなく、そこにニュートン自身の別の実験結果も書き留められていた。
ニュートンは写本のテキストに書き込みをすることがよくあるため、今回も、鉛鉱物を使った実験手順がメモされており、これはニュートンの錬金術に関する理解内容を示しているものなのだという。
では賢者の石とは一体なんなのだろうか。
「賢者の石」とは、卑金属を金に変える触媒と考えられていたもので、不老不死の薬「エリクサー」を作る材料になるものとも思われていた。
現代の学者が解読したところ、スターキーによる「哲学者の水銀」のレシピでは、水銀を蒸留し、金と一緒に加熱する過程が幾度も繰り返されている。この作業を続けると、やがて枝のように伸びた繊細な突起をもつ合金が生成される。
この驚くほど樹によく似た構造物を見たスターキーは、それが「哲学者の水銀」が生命を宿し、その力と重要性を示したと感じていたことが、その記述から読みとれる。
だが、ニュートンがスターキーのレシピを正確に読み解いたのかどうか、また錬金術で樹状の構造物を生み出すのに成功したかどうかを示す証拠は残されていないという。
だが、ニュートンがスターキーのレシピを正確に読み解いたのかどうか、また錬金術で樹状の構造物を生み出すのに成功したかどうかを示す証拠は残されていないという。
これらのテキストはすでに画像化されており、近いうちにインディアナ大学のオンラインデータベースである、「アイザック・ニュートン化学プロジェクト」に加えられ、全世界に公開される予定であるという。
聖書研究に没頭したニュートン
また、ニュートンは豊富な神学の知識があったため、聖書に隠された暗号の調査に50年以上、心血を注いでいたと言われている。ニュートンは、自身を聖書の記述を解釈する使命のため、神に選ばれた人々のひとりだと考えていた。
そして、その研究結果を18世紀に書き上げ、ある伯爵の邸宅に「秘密文書」として保管していた。そこには”人類の終末についての予言”もあったと言われている。
この秘密文書が完成する2年前、ニュートンは得体の知れない何者かに絶えず脅かされていたという。
ニュートンはこの予言に関して「この予言は、終末がいつ来るか断言するものではない。空想家による性急な当て推量と、それが外れることによって神聖な予言に疑惑が湧くことを防ぐためのものである」と言っている。
ニュートンが予言した人類の終末は「20☓☓年」
ニュートンは聖書の独自の研究によって、人類が滅亡する年も明らかにしていたといわれている。その鍵は、まさにソロモンの神殿(写真上)だったという。
ソロモン王によって建てられたソロモンの神殿は、バーミロニアに破壊された。ニュートンは「このソロモンの神殿が再び完成した時、人類が滅亡する」と予言したのだ。
そのなかでニュートンは以下のように予言している。
「「一時と幾時と半時」は、太古の暦法に合わせて一年を12か月・1か月を30日とすれば、3年半、すなわち42か月もしくは1260日間である。
そして短命の獣の年月を長命の王国の年月に置き換える。1260日間を三人の王の征服からはじまると計算すると、2060年に終わることになる。
これ以降に世界の終わりが訪れるのかもしれないが、これより早く終わる理由は私には見あたらない。 キリストはひっそりと姿を隠してやって来るのであり、我々は神の胸中にある来訪の時期を知るべくもないのである。」
そして、その年は、2060年だといわれている。
▲「ヨハネの黙示録の四騎士」
ニュートンが2060年終末と予言した理由は、ヨハネの黙示録13章に書かれたフレーズからだった。
ヨハネの黙示録に書かれた666は、獣の数字としてもよく知られているが、ニュートンはこの666という数字に、地球終末の秘密が込められていると確信したという。
666を三つの部分に分けて掛けると、18。ここに10の災いの10を掛けて、聖書で完全な数とされる「7」を掛けると、1260という数字がでる。
ニュートンはこの1260を終末を予測する秘密の数字だと思った。彼は終末に関連する数字「1260」に「800」を加えて「2060」を終末の年と主張したのだ。
▲ニュートンによるソロモン宮殿の図解
ニュートンが800という数字を用いた理由は、フランク王国の王だったシャルルマーニュが800年に西ローマ帝国を復活させたからと言われている。また、彼は人類の終末が自然災害などではなく、人間のために行われる人災であると伝えている。ニュートンの予言の真相とは?
この予言が記された書は2007年夏になって、エルサレムの新市街地の丘にある国立文書館兼ヘブライ 大学図書館の一角で、初公開された。
赤茶けた紙片にペンとインクで細かく記してあり、神学研究の抜粋の束だが、そこに終末の、西暦2060年という大予言の文書も含まれていたという。
2003年の2月から3月にかけて、多くのメディアがこのニュートンによって書かれた無名・未発表の文書に注目した。
文書の中で、ニュートンは少なくとも2060年までは世界は滅びないと予測していたと言われている。このニュースは広く関心を集め、イギリスのデイリー・テレグラフ紙、カナダのナショナル・ポスト紙などの新聞の一面を飾り、ネイチャー誌などの科学雑誌でも特集が組まれた。ニュートンは2060年以降の出来事について、地球とそこに住む生物の消滅については明言はしておらず、どちらかといえば神聖なる霊感を受けた平和な時代への移行とともに、世界が新しいものに置き換えられると信じていたと言われている。
はたして2060年、何が起きるのか?
参照:ニュートンのオカルト研究、ニュートンの予言、ナショナルジオグラフィック