この日は、カトリック教会におけるマグダラのマリアの記念日となっている。
マグダラのマリアは、キリスト教における改悛した女性の守護聖人として有名だが、実はその墓の場所については諸説があると言われている。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」では、テンプル教会から移動され、逆さピラミッドの下にある隠し部屋に静かに眠っているマグダラのマリアというシーンがあった。
実は、マグダラのマリアの聖遺骨(とされるもの)は、別の場所に”存在”するらしい。
果たしてマグダラのマリアの墓とは一体どこにあるのか?
マグダラのマリアとは
そして、復活したイエスに最初に立ち会い、「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」とイエスに窘められる。
『マタイによる福音書』などによれば、彼女は復活の訪れを弟子(使徒)たちに告げるため遣わされたと言われている。
▲ティツィアーノ「ノリ・メ・タンゲレ〜我に触れるな」
イエスの死後、マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わった週の初めの日の明け方に、イエスの納められている墓に向かった。
その時、大地震が起こり、墓の入り口を塞いでいた大きな石が転がり、墓の入り口が開いた。マタイによる福音書によると、それは天使の仕業であり、墓の中にはイエスの遺体はなく、天使にイエスの復活を告げ知らされた婦人たちは復活したイエスの姿を見つけるのである。
マグダラのマリアは「罪深い女」だったのか?
▲カラヴァッジオ「法悦のマグダラのマリア」
マグダラのマリアといえば、悔い改めた「罪深き女」として描かれることが多いが、このイメージは、「ルカによる福音書」に登場する「罪深い女」の記述が元凶となっているといわれている。
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」
<ルカによる福音書7章37-38節より>
▲「シモン家の宴」
また、エルサレム巡礼を経て改心し砂漠の洞窟で一人苦行した「エジプトのマリア」とも同一視され、「マグダラのマリア」は「遊女あがりの罪深い女」というイメージが定着していったようだ。
悪女のイメージはさらに膨らみ、13世紀に記されたキリスト教の聖人伝集「黄金伝説」では、マグダラのマリアは金持ちの娘で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したと描かれている。
なお、今日のカトリック教会では、バチカン公会議を受けて1969年にマグダラのマリアを「罪深い女」から区別する旨が明確にされており、その地位は見直されているといわれている。
マグダラのマリアの謎の死
マグダラのマリアは、イエス昇天後、兄弟ラザロ、マルタ (マリアの姉) らとともに南仏マルセイユ(あるいはサント=マリー=ド=ラ=メール)に着き、晩年はサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終えたと言われている。
遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたと信じられていた。
しかし、その遺骸は、いくつもの場所で伝説となっているのだ。
マグダラのマリアの聖遺骨はどこにあるのか?
その一つが、フランス南部の山の神聖な洞窟である。
前述のとおり、マグダラのマリアはナザレのイエスが磔刑に処せられた後、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベ、従者のサラ、マルタ、ラザロたちとともに、エルサレムから小舟で逃れてこの地へと流れ着いたとされており、マグダラのマリアはこのサント・ボームの中腹にある洞窟で30年も祈りと黙祷を捧げ続け、天に召されたと言われている。
▲実際のサンドボーム山 |
プロヴァンス語の「神聖な洞窟」が語源である「サント・ボーム」の名前がつけられており、場所もかなり自然と融合している神秘的な場所である。
▲パティニール「法悦のマグダラのマリア」 |
そして『サント・ボーム山塊の洞窟』の祭壇の裏には、マグダラのマリアの聖遺物とされるものが祀られているのだ。(写真上) また、サンドボーム山の切り立った崖の洞窟のほかにも、マグダラのマリアの遺骸があると言われているのが、その麓にあるサン・マキシマンの教会だ。
サン・マキシマン教会のマグダラのマリア
サント・ボーム山塊の洞窟とサン・マキシマム教会は一つながりとなっている。
このサン・マキシマム教会にはマグダラのマリアの頭蓋骨が眠っていると言われている。
▲サン・マキシマム教会にあるマグダラのマリアの頭蓋骨
1295年には、カトリックの総本山であるヴァチカンから「聖マリー・マドレーヌ(マグダラのマリアのこと)はサン・マクシマンに葬られている。」とする正式な教皇判断が下され、現在では、大理石の石棺と共にクリプトに安置されているマグダラのマリアの頭蓋骨を見ることができる。
さらに、マグダラのマリアの遺骨は毎年街の祭りとして、マグダラの聖日(7月22日)に彼女の頭蓋骨に黄金の仮面を被せ、サン・マキシマンの町々を街中を歩くお祭りがあるという。
マグダラのマリアは図像学的にいうと、頭蓋骨と一緒に描かれることが多いとされているが、これは彼女がイエスの死後、船でフランスまで来て、その山奥で修行し、かつて娼婦であった自分を自責し、イエスの髑髏を前に(イエスの亡骸から骸骨をマリアが持ち去ったらしい)瞑想にふける、といった「伝説」が残されているからと言われている。
もう一つのマグダラのマリアの聖遺骨があるとされていた場所とは?
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フランス南東部における最大のゴシック建築である聖マドレーヌ大聖堂は、フランスで最も美しい村ともいわれているフランスのブルターニュ地方のヴェズレーにある。
名前のとおり、マグダラのマリアにまつわる教会とされ、この大聖堂にもマグダラのマリアの聖遺骨が存在していた、と言われていたのだ。
▲聖マドレーヌ教会のファサード
この聖マドレーヌ大聖堂は、861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。ローマ教皇ヨハネス8世がこの場所をマグダラのマリアに捧げると宣言し、878年には、マグダラのマリアのものとされる聖遺物が公開され多くの巡礼者が訪れた。
ヴェズレーにあるマグダラのマリアの遺体は、もともとサント・ボーム山のサン・マクシマン教会から移葬したものとされていた。
しかし 1279年、ナポリ王シャルル2世 の命によりサント・ボーム山にドミニコ会修道院が設立された際に、非常に古い地下礼拝堂が見つかり、ここで本物のマグダラのマリアの遺体が発見されてしまったのだ。
聖女の遺体と同時に、由来を記した書物が見つかったと言われている。
それによると、イスラム教徒による破壊を恐れて、サント・ボームの人々が聖女の遺体を別人の遺体とあらかじめすり替えていたというのだ。13世紀後半に見つかったものが真正の聖女の遺体であり、ヴェズレーの修道士がサント・ボームから盗み出したと主張する遺体は替え玉だったということになる。
聖女の遺体が発見されるや否や、サン=マクシマンでは奇跡が続発して、その真正性を裏付けたと言われている。
書物により、偽物とされた聖マドレーヌ大聖堂には、現在も聖遺物の一片があると言われている。
参照元:
http://www.air-travel-corp.co.jp/report/report267.html
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1727482&id=16234557
http://antiquesanastasia.com/religion/references/churches/particular_churches/roman_catholic/france/metropolitaine/provence-alpes-cote_d'azur/saint-maximin-la-sainte-baume/basilique_sainte-marie-madeleine.html