『悪の魔術』の研究にはげみ、祖国であるイギリスにも入国禁止になるなど、その奔放な活動から
「世界で最も邪悪な男」とも呼ばれた。
一方で、第二次世界大戦において、ドイツとの間に占星術戦争に協力し、ドイツのイギリスへの上陸を阻止した、とも言われている。
はたして、20世紀最大にして最後の魔術師 アレイスター・クロウリーらが行った「占星術戦争」とは?
目次
20世紀最大の魔術師 ”アレイスター・クロウリー”とは
▲アレイスター・クロウリー
アレイスター・クロウリーは1875年10月12日に英国 レミントン・スパーに生まれた。
ビール酒造業者の家に生まれ、エドワード・アレグザンダー・クロウリーと名づけられる。
両親はエクスクルーシブ・ブレザレン(イングランド国教会から分離したカルヴァン主義の一派)の信徒であったと言われ、両親の信仰していたエクスクルーシブ・ブレザレンは保守的・福音主義的で、厳格に聖書に基づく教理を守ることを徹底させる一派だった。
1887年、アレイスター・クロウリーが12歳のときに父親が亡くなると、多額の遺産が彼に残された。父親の死後、エクスクルーシブ・ブレザレン派の寄宿舎に入れられるが、その厳格なキリスト教教育に反発して退学。
やがて、ケンブリッジに進学したが健康を損ねてここも自主退学。
その後、化学と医学の道を進む決心をしてキングス・カレッジに入ったが、すぐに医学への関心をなくし、ケンブリッジ大学に移籍した。そこで哲学や心理学を学ぶも、それにも飽きて古典学に変えた。
このケンブリッジ時代の彼の生活は、当時の学生にしては優雅なもので、詩やスポーツ、女遊び(時には男遊び)、政治運動などにも熱中したと言われている。
魔術との出会い
▲A・E・ウエイトの考案したウェイト版タロット
そんな彼が、魔術に関心をもったのは、ケンブリッジ大学卒業間際だったといわれている。
彼は、ウェイト版タロット(写真上)の共同制作者としても有名なA・E・ウエイトの著書にふれ、魔術に関心を持った。
彼はウエイトに質問の手紙を出しているが、それに対するウェイトの返事は、「いずれ君の前に、師になる達人が現れる。そのための前準備として精進しなさい」というものだった。
その後、彼はヘルメス哲学にのめり込み、錬金術に夢中になった。
1898年に、クロウリーはある偶然に遭遇する。
彼はツェルマットに登山に出かけ、地元の酒場で錬金術について一演説をしていた。そこに、たまたまそこにジュリアン・ベイカーという青年がおり、彼はクロウリー以上の錬金術の知識を持っていた。そこで、彼はこのベイカーこそが、自分の探していた達人・師ではないか、と思ったのだ。
しかし、ベイカーはあっさりとそれを否定し、「代わりに私の師を君に紹介しよう」と言った。
そこで紹介されたベイカーの師がジョージ・セシル・ジョーンズという化学者だった。
▲「GD(黄金の夜明け団)」のパンフレット
彼は、フリーメイソン系の英国薔薇十字協会の会員が創設したとされる「GD(黄金の夜明け団)」の幹部であった。クロウリーは、彼の手引きでGDに入団し、イニシエーションを受けたのである。
「黄金の夜明け団」の教義は、カバラを中心に、 当時ヨーロッパでブームを起こしていた神智学の東洋哲学や薔薇十字伝説、錬金術、エジプト神話、タロット、占い、グリモワール(魔法の書物のこと)などを習合させたものであった。
教義の習得ごとに、「生命の樹(カバラの創世論の図)」になぞらえた位階を設定。昇格試験を経て上位の位階に進むというシステムを採用し、一種の「魔法学校」の様相を呈していた。
かくして、魔術師クロウリーが誕生した。彼の魔法名は「ペルデュラボー(耐え忍ぶ者)」であった。しかし、やがて団内において勃発した“派閥争い”に巻き込まれてしまい、失望したアレイスター・クロウリーは黄金の夜明け団を脱退。
その後、アメリカ旅行を経て、パリに滞在し芸術家達の溜まり場だった酒場「白猫亭」に入り浸り、そこで錚々たる芸術家達と知り合っている。
文豪サマセット・モームは、この時の経験をもとにクロウリーをモデルにした長編小説「魔術師」を書いている。
「世界で最も邪悪な男」アレイスター・クロウリー
▲アレイスター・クロウリー
旧友の姉だったローズ・ケリーと最初の結婚をし、その新婚旅行で訪れたエジプトで魔術的な啓示を受け、「法の書」と呼ばれる魔術書を執筆している。
1907年になると、みずから儀式魔術結社AA(銀の星)団を設立。
次第に彼の結社内での魔術は、麻薬・性を応用した儀式が中心となっていき、つねに奔放な活動で物議を醸し、マスコミに「世界で最も邪悪な男」と書き立てられる存在となる。
彼と接触がある、というだけで当時はスキャンダルになるほどだった。
1920年には、シチリアのチェファルにて「テレマ僧院」を開設。
ここでも麻薬や性に関する儀式を行っていたが、ひとりの男性信者がジステンパーにかかった猫の血を飲み、感染し死亡したため、英国の国外退去を命じられた。それ以後は、各地を転々としていたと言われている。
第二次世界大戦の勃発
1939年ドイツ軍がポーランド侵攻を果たしたことにより、第二次世界大戦が始まった。
当時、枢軸国側のドイツは、アドフル・ヒトラー率いるナチスによって独裁支配されていた。
アドフル・ヒトラーはそのオカルト志向でも有名だが、当時のナチス・ドイツにはナチスお抱えの占星術師がいたと言われている。
それがカール・エルンスト・クラフト(写真下)だ。彼がナチスに見出されたことによって、英独による占星術戦争の幕が開かれることになる。
ナチスの占星術師 カール・エルンスト・クラフト
▲カール・エルンスト・クラフト
カール・エルンスト・クラフトは、妹の死の1年前に予知夢のようなものを見て、オカルティズムに関心を示すようになった。
1920年にジュネーヴ大学に移ってからは、専門であった統計学のほかに、西洋占星術を本格的に研究するようになった。何万人分もの出生時間を調査し、惑星の位置が人間の才能や体質に及ぼす影響について研究し、「コスモビオロギー(宇宙生物学)」と呼ぶ独自の理論を唱えた。
1939年、クラフトはヒトラーのホロスコープを作成し、同年の11月7~10日の間に、ヒットラーは命の危険に晒されると予告した。彼は、その旨を国家保安局に手紙を出して警告した。
そして、この予言は的中する。8日にミュンヘンのビアホールで、ヒトラーが演説をしているときに爆弾が爆発した。
その正確すぎる予言により、クラフトはナチスに一時犯人と疑われ、逮捕されたが、後に釈明に成功する。
その後、ナチス宣伝相ゲッベルスがクラフトの驚異的な予知能力に注目し、宣伝局の一員として抜擢。
ゲッベルスがクラフトに命じたのは、ノストラダムスの予言書『諸世紀』をベースに、ドイツに有利な予言を載せたパンフレットを作ることだった。
オカルトが一大ブームとなっていた当時のドイツで、ナチス帝国がその領土を拡大することが、ノストラダムスの予言詩や占星術ですでに予言されていると大衆にアピールできれば、ドイツの軍事行動は、「神がドイツ国民に与えた使命」だと信じさせられる、と考えたのだ。
▲「プロパガンダの天才」ゲッペルス宣伝大臣
こうしてゲッベルスの指導の下、作成されたプロパガンダ用パンフレットが何種類か発行されて出回り、各国語に翻訳され、隠れたベストセラーになった。
もちろんこれらはニセ予言であったため、強要されたクラフトにとっては、かなり苦痛を伴う仕事であったという。
その後もクラフトはナチス幹部に重用され、ドイツ軍の作戦の多くを占星学上から割り出し、指示を与え続けた。
例えば1940年の西欧諸国への攻撃、1941年のユーゴ、ギリシャ進撃も、クラフトの選んだ吉日に行われたという。また、1940年のイギリス上陸作戦の突如の中止も、クラフトの予言で凶と判断されたからだという。
英国の占星術師たち
▲英国軍の占星術師ルイ・ド・ウォール
一方、当時のイギリスでは、ナチスの指導者たちがオカルトに傾倒していることを察知していた。
もしドイツが占星術によって作戦を練っているのだとすれば、同じ占星術によって、ドイツの作戦を予測できるに違いないと考えた。
彼らはイギリス外務官O・サージェント卿の指揮のもと、「チレア計画」というプロジェクトをスタートさせ、ロンドンに亡命してきていたユダヤ人の占星術師ルイ・ド・ウォールにナチスの作戦を逆解読をさせたのである。
ルイ・ド・ウォールは1903年にドイツに生まれたが、先祖にユダヤ人がいたためヒトラーが政権を握るとイギリスに亡命していた。
▲ドイツ軍によるフランス侵攻
ウォールの最初の仕事は、ナチスのイギリス本土上陸作戦の「逆解読」だった。
そしてその解読は、見事なまでの成功を収めた。
その後も、ウォールはドイツ側のクラフトの立てる占星術的戦略を次々と解読していったと言われている。
ウォールは、その成果を1941年8月、アメリカのオハイオ州で開催された「米国科学的占星学者連盟」で発表している。
ウォールは席上、ヒトラーの作戦と星の運行を比較し、公に「ヒトラーはドイツで最高の占星術師を軍事顧問として抱えている」と断言、更に、敵側の今後の戦略を「逆解読」してみせた。
英独のプロパガンダによる「占星術戦争」
クラフトとウォールの対決は、軍事戦略面のみならず、やがて、プロパガンダの舞台でも繰り広げられることになる。
ドイツ軍に有利なノストラダムスの解釈がドイツのクラフトによって作られ、各国にばらまかれて浸透している状況の中で、イギリス軍の参謀本部は、それに対抗するプロパガンダを作成・普及させる使命を、ウォールに与えたのである。
そこでウォールは、ドイツ内部の国民感情を揺さぶるような戦略を展開させる。それは、「ドイツ国内に偽造した占星暦を送り込む」というものだった。
▲ウォールによってばらまかれたニセ「天頂」の表紙
当時、ドイツにはよく知られた「天頂」という占星暦があった。
ウォールはその「天頂」のきわめて精巧な偽物をつくり、ドイツ側にマイナスとなる情報を数多く盛り込み、スウェーデン経由でドイツ国内に大量にばらまいたのである。
ニセの「天頂」は大成功を収め、多くのドイツ人に行きわたり、国民の動揺が静かに広がっていった。
アレイスター・クロウリーの暗躍
▲アレイスター・クロウリー(1902年K2登山中の写真)
また、英国側の占星術師として、アレイスター・クロウリーも呼ばれていたと言われている。
当時、すでに彼は高齢となっていたが、その老魔術師にイギリス軍情報部が協力を要請した。彼を起用するよう上層部に働きかけたのは、“007”の作者イアン・フレミングだったと言われている。
彼がクロウリーを起用して何を行なったかは実際に書き残されたものはないが、さまざまな証拠からいくつかの事実が明らかになっている。
そのひとつが第二次世界大戦中、連合国側(とくにイギリスの首相チャーチル)が好んで使ったマーク、「Vサイン」である。
チャーチルはなぜ「Vサイン」を好んだのか?
▲チャーチル首相の有名なVサイン
1941年初頭から、突如として連合国に勝利の意味をあらわす「Vサイン」を示し、ドイツなどの占領者に対抗する、という運動が始まった。
1942年になるとイギリスのBBCが本格的にこの運動を「V for Victory」(「勝利のV」)キャンペーンと名付け、当時の首相であるウィンストン・チャーチルも、このVサインをする写真が数多く残されている。
このサインは、連合軍の士気を高めるのに多大な効果をあげた。
チャーチルは「V for Victory」キャンペーンについて演説の中で肯定的に言及し、以降、手で作るVサインを自ら使い始めたのだと言われている。
▲Vサインを示すチャーチル
この「Vサイン」=「アポフィスとタイフォンのサイン」を生み出したのは自分である、とクロウリーはその著書で主張している。
クロウリーは、1941年からのVサインの使用は自分の発案であると主張し、「Vサイン」はペンタグラムの魔力を応用し、ナチスの鉤十字(スワスティカ、ハーケンクロイツ)の使用に対する魔術的な対抗手段なのだと述べた。
彼の主張によれば、彼はこの考えをBBCに所属していた友人に伝え、さらに、イギリスの諜報局MI5とのつながりを介して海軍情報部に伝え、チャーチルの承認を得たのだという。
次第に、連合軍側の他の指導者たちも、このサインを用いるようになり、シャルル・ド・ゴールは、1942年以降、 晩年の1969年至るまですべての演説の際にVサインを用いていたと言われている。
さらに、クロウリーはイギリス中の魔女たちを集め、“ヒトラーのイギリス上陸を防ぐ”呪術儀式を行なわせたとも言われている。
第二次世界大戦の最中、何十もの魔女集会が開かれたという。目撃者の証言がいくつもある。
ヒトラーはイギリス本土侵攻にはついに本気にならなかったが、このことについて魔女たちは、「ナポレオンの時と同じことが起きただけ」と語っていたと言われている。
ナチス副総統の謎の逃避行の原因は「占星術」だった?
▲「ヒトラーの片腕」ナチス副総統ルドルフ・ヘス
1941年5月10日、世界を驚愕させる事件がおきた。
ナチスにおいて「ヒトラーの片腕」と呼ばれ、副総統までつとめていた最高幹部ルドフル・ヘス(写真上)が、ヒトラーに無断で、突然、飛行機でイギリスに飛んだのだ。
敵国であるイギリスに単独飛行し、なぜヘスはみずから逮捕されるようなことをしたのか?
その真相にはいくつかの説があると言われている。
実はヒトラーはイギリスに対してはかねてから和平を望んでおり、ヘスも同意見だったという。
▲ハウスホ−ファーとヘス
同じくイギリスに対して和平を望むべき、と主張しており、ヒトラーの信望も厚かったドイツの地政学者ハウスホーファー(写真左)と、その教え子であったヘスが1940年8月31日に会談した際、「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと告げられており、そこでヘスは単独で渡英し、和平を実現することを思いついたのだ、といわれている。
また、当時のヘスをよく知っていたヒルデブラント博士はこう証言している。
「ヘスは占星術によって、すみやかに敵の意志を改変するために、できることの全てを行なわなければならない、と信じるようになった。
というのも、4月の終わりから5月にかけて、ヒトラーの星相は非常に凶悪なものになるからだ。そこでヘスは、ヒトラーを救い、ドイツに平和をもたらすのは、自分が負うべき使命だ、と思いつめるようになっていた。」
▲ヘスの謎の飛行を報じた新聞(1941年5月11日)
つまり、ヘスは占星術や夢のお告げを信じて、英国へ飛び立ったというのだ。
また、ヘスはドイツにおいて秘密結社「トゥーレ協会」のメンバーだった。
この結社によく似た結社がイギリスにもあったが、それが「黄金の夜明け団」だ。
「黄金の夜明け団」の当時の有力メンバーにハミルトン公爵がおり、ハウスホーファーの息子アルブレヒトによって、ヘスはハミルトン公爵を紹介してもらったと言われている。
ハミルトン公は首相ウィンストン・チャーチルとも親しく、ヘスとベルリンオリンピックで面会したことがあったという。ヘスはハミルトン公の元に飛行前に手紙を送っていたが、イギリス側の検閲のため届かなかった。
▲ヘスの搭乗したBf110の残骸
さらに、ルドルフ・ヘスをイギリスに招き寄せたのはアレイスター・クロウリーではないか、いう説もある。
クロウリーはドイツの占星術師にニセの占星図を作らせ、イギリスのスパイの手でヘスのそれとすりかえさせ、それを信じたヘスがイギリスとの和平を目指して謎の飛行をしたのだと──『イギリス情報機関の歴史』は伝えているという。
5月11日、イギリスへ降り立ったヘスはハミルトン公と面会して身分を明かした。事態の重大さに驚いたハミルトン公は彼をブキャナン城に移し、英国政府に連絡を取った。
同じ頃、ヘスの書き残した書簡を見せられたヒトラーは驚愕し、「何ということだ、ヘスがイギリスへ飛んだ」と叫んだという。
英独占星術戦争の終わり
▲カール・エルンスト・クラフト
ルドルフ・ヘスの謎の飛行の一件で激怒したヒトラーは、ドイツ国内にイギリスがまき散らした「プロパガンダ用占星暦」を一掃する作戦に出た。
実はドイツ側の占星術師であったカール・エルンスト・クラフトは、すでに1940年の時点で次のように告げていた。
「ドイツは1942年から43年にかけての冬までは、連勝を収めるでしょう。しかし、その後の星相は最悪です。1942年末までに休戦すべきです。」
その後、ヘスの事件が起き、ヘスが占星術のご託宣を信じて、英国へ飛び立ったことから、ヒトラーはドイツ国内の占星術師をも弾圧・一斉検挙した。
その中には、カール・エルンスト・クラフトも含まれていたという。彼は悪名高いブッヘンヴァルト強制収容所に移される途中、栄養失調で死亡したと言われている。
伝説によると、彼は最後の予言を残したという。
それは、ドイツ宣伝省は、その卑しむべき行為の罰として、連合国の爆撃を受けるだろうというものだった。
やがて、ベルリン大空襲によって街は廃墟と化し、この予言は的中した。
▲クロウリーの生み出した「トートのタロット」
一方、歴史の裏で暗躍し、奔放な活動によって世間を騒がせた最後の魔術師であるアレイスター・クロウリーは、大戦後の1947年12月1日、イギリスの片田舎で、心筋退化及び慢性気管支炎で死去した。
彼の最後の言葉は「私は当惑している……」だったと言われている。赤貧と衰弱の中、彼は世を去った。72歳だった。