真相が判明?謎のメッセージを残して集団失踪をとげた「ロアノーク植民地集団失踪事件」~新大陸で生まれた初の白人の赤ちゃんの運命は?

2014/04/23

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8月18日
16世紀後半、現在のアメリカのノースカロライナ州には、ロアノーク島という植民地があった。
 この小さな島には開拓民が二度に渡って派遣されたという。

1587年、測量士兼画家であったジョン・ホワイトが指揮を執る植民者遠征隊が派遣されたが、その後ホワイトは本国に帰らなければならず、ロアノーク島には115人の男女の植民者が残された。
再びホワイトがロアノーク島に戻ってきたのはその3年後の1590年8月18日だった。

ところがその時、ロアノーク植民地には、人が一人もいなくなっていた。彼らの行方はわからぬまま、残された謎のメッセージだけが発見されたのだ。
この謎多き失踪事件に関しては、近年になって驚くべき発見がされたという。
果たして彼らはどこへ消えてしまったのか?


ロアノーク植民地とは



1584年、時のイギリス女王エリザベス1世の寵臣だったウォルター・ローリー(写真)が率いるアメリカ大陸探検隊が、現在のアメリカ合衆国ノースカロライナ州デア郡にあるロアノーク島に辿り着いた。

ローリーは、北アメリカの東海岸での開拓地を発見するために、遠征隊を派遣していたが、ローリーは、この地が植民に適しているという感触を得たのだ。
こうして、ロアノーク島はエリザベス1世から「ヴァージニア」と呼ぶ許可を与えられ、イギリスの植民地となった。

最初の植民は失敗におわったが、さらに1587年になって二度目の植民が行われた。
1587年5月8日、今度は前回の航海に測量士兼画家として参加していたジョン・ホワイトが率いる一団150人が、再度ロアノークへ向けて出発する。

二度目の植民とジョン・ホワイトの帰国



ロアノーク島に到着した一団は植民を進め、今度の植民は順調に進むとおもわれた。

ジョン・ホワイトは近隣に住んでいたクロアタン族との関係を再構築し、前年ほかの入植者が攻撃した部族との関係を修復しようとした。

しかし不満を感じていた部族は新しい植民者達との会見を拒み、それから間もなく、一人の植民者が海峡でカニを探しているときに先住民に殺されるという事件が起こる。

植民者達は自分たちの生命が脅かされていることを恐れ、ホワイト知事に本国イングランドへ戻って植民地の事情を説明し援助を求めるよう説得した。ホワイトがイングランドに向けて出発したとき、植民地には115人の男女植民者が残っていたという。


3年後、島に残されていたもの~謎のメッセージとは



ジョン・ホワイトが英国に帰国すると、すぐに植民地へ救援隊の計画が立てられたが、おりしもイギリスはスペインと「英西戦争」の真っ只中だったため、ホワイトはなかなか島に帰れず、なんとか遠征隊の私掠船に乗り、カリブ海からの帰り道にロアノーク島に上陸した。
ホワイトがロアノーク島に戻れたのは島を出てから3年もたった1590年8月18日だったという。



しかし、開拓地はすっかり荒廃し、 家屋や防御工作物は全て解体されており、男90人、女17人、子供11人の植民者達は何処にもいない。






植民者同士が争った様な痕跡もなく、数少ない手がかりとして、砦の柱に「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に「クロ(CRO)」という言葉が彫り付けられていたという。



ホワイトは3年前に島を発つ時、何か非常事態が起こった場合は、近くの木にマルタ十字を彫る様に指示していたという。その十字架が掘られていた場合は、植民者達が強制されて出発したことを意味することになっていた。

しかし、その十字架は彫られていなかったため、柱のメッセージは植民者達がクロアトアン島に移動した事を意味していると解釈されたが、 大きな嵐が近づいていた為、それ以上の探索を諦めて引き上げたという。

その後、消えたロアノーク植民者たちについての消息は一切途絶え、
ロアノーク植民地は「ロストコロニー(失われた植民地)」として、消えた植民者達の運命について様々な憶測が生まれていった。

さらに、この集団失踪事件は、「アメリカ大陸で出生した最初のイングランド系白人であった女児」ヴァージニア・デアの伝説を生むことになる。


ジョン・ホワイトの孫娘「ヴァージニア・デア」の伝説

(写真:1937年、ヴァージニア・デア生誕350年を記念して発行された郵便切手)

ジョン・ホワイトが入植を開始した1か月後、1587年8月18日に彼の娘であるエレノアはロアノーク植民地で一人の女の子を出産した。

この女の子は名前をヴァージニア植民地にちなんで「ヴァージニア・デア」と名付けられ、その子はアメリカ大陸で出生した最初のイングランド系白人の赤ちゃんとなった。

ジョン・ホワイトが英国に帰国したとき、ヴァージニアは両親とともにロアノーク植民地に残ったとされている。
3年後の1590年にホワイトがようやくロアノーク島に帰還できた日は、奇しくも孫娘ヴァージニアの3歳の誕生日である8月18日であったが、開拓地は荒廃しており、植民者達は1人残らず消えてしまっていた。
これ以降、ヴァージニア・デアの消息は永久に不明のままとなってしまったのだ。

このヴァージニア・デアの数奇な生涯はロアノーク植民地の謎めいた消失とあいまって、今でもアメリカの大衆文化の中に少なからぬ影響を与えていると言われている。

ヴァージニア・デアは生きていた?~有力な仮説


(ヴァージニアの名前が冠されたビール)

実は、彼女の行方については、ある記録が残されているという。

「1609年のロンドンでは、パケリウキニック集落の「ゲパノカン」と呼ばれるインディアンの酋長の下で、生活しているロアノークから来たイングランド人に関する報告がある。ゲパノカンはロアノークから来た4人の男、2人の少年「および1人の若いメイド」を銅の作業者として抱えていたと言われていた。」

この一人の若いメイドが「ヴァージニア・デア」ではないかと言われているのだ。この記録が本当ならば当時ヴァージニアは22歳くらいになっていたと言われている。
この説によれば、ロアノーク植民地の人々がインディアンの部族である地元のクロアタン族、あるいはハッテラス族、あるいはほかのアルゴンキン族インディアンの中に分散し吸収されたという。


彼らは一体どこへ消えてしまったのか?



このロアノーク集団失踪事件に関しては、インディアンへの分散吸収説以外にも、自力で英国に帰ろうとして海難事故によって絶滅した、人肉食によって滅んだ、スペインによって滅ぼされたなどの説があげれているが、近年になって科学的な調査が本格的に行われるようになった。

1998年、東カロライナ大学はロアノーク事件を考古学的に調査する「クロアトアン・プロジェクト」では、彼らは、昔のロアノーク植民地から50マイル (80 km) にある古代クロアトアン族首都があった地点で発見された指輪を調査した。

この指輪は1585年から1586年にロアノーク島にあったラルフ・レーンの植民地に住んだという記録があるマスター・ケンドールの所有物だったが可能性が強いと結論づけた。
これが事実であれば、この指輪はロアノーク植民者とハッテラス島のインディアンの間の関係を結びつける初の物的証拠となる。



また、、テキサス州ヒューストンのファミリーツリーDNA社(写真)の「ロアノークの失われた植民地DNAプロジェクト」では、失われた植民地の生存者が養子縁組あるいは奴隷化によって地元のインディアン部族に同化したかどうかをDNA型鑑定を使って実証することを目指している。これら種族の間にはかなりの比率で植民者の姓が存在しているとされ、さらにこの理論を裏付ける事実が発見されてきたという。

はたして真相は?





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