1948年の5月26日、ある一人の男が息を引き取った。男の名前は「ミリン・ダヨ」。
胴体にサーベルを突き刺して貫通させるパフォーマンスを数限りなく行い、「不死身の男」と呼ばれた謎の人物である。後に、米タイムス紙上に『奇蹟の男(Miracle Man)』として紹介され、さらに不思議な予知能力すら持っていたとされるこの男は、一体何者だったのか?
そして、どうして”不可解な死”を遂げたのか?
奇蹟の男 「ミリン・ダヨ」とは
▲ミリン・ダヨの実際のパフォーマンス
1947年6月23日、米タイムス紙上に奇妙な記事が掲載された。『奇蹟の男(Miracle Man)』,そう紹介されていたのは、とあるオランダ人の男だった。
「苦難の時、"奇蹟の男"は兆しと驚きを示すため、メッセージを携えてやってくる。先週から、スイスのチューリッヒは"奇蹟の男"の話題で持ちきりだ。毎晩毎晩、コルソにある町一番の音楽ホールでは、35歳のオランダ人が観衆たちを魅了しているのだ。男の名はミリン・ダヨ。その奇蹟の男は毎晩ステージの上に立ち、剣やら槍を、生きたまま胸に突き立てているというのだ!」
(米タイムス紙より)
▲実際のパフォーマンス動画
ダヨは多い時で一日あたり五十回から百回以上、身体を鉄の器具で突き刺すこともあったという。鋭い鉄の器具は、時にダヨの肺や心臓、腎臓を貫いたり、幾つかの臓器を一度に串刺すことさえあったという
また、ダヨのパフォーマンスを疑う人たちに、パイプを渡し、体に突き刺させたこともある。
直径8mm程のパイプに水道を繋ぎ、本当にダヨの身体にパイプが貫通しているかを調べさせたともいう。
▲ミリン・ダヨの出演を示すポスター
ミリン・ダヨの実際のパフォーマンスの様子はこうだ。
”ミリン・ダヨは上半身裸のまま、部屋の真ん中に静かに立っていた。
すると彼の後ろに立っていた助手がダヨの背後に近寄って、力任せに背中へ剣を突き立てた。
丁度彼の腎臓のあたりだった。実験に経ちあった医師も、ただ口をポカンと開けていた。
疑いようもなく、確かに長さ80cmの剣(フェンシング用のフルーレ)が、彼の背中から突き刺さっている。
その先端は手幅より長く、彼の胸から突き出していた!でも血は一滴も流れていなかった。”
決定的な転機が訪れるのが、33歳になったばかりころ。
”私は芸術家ではない。預言者である。
20代ではデザイン会社のチーフになるなど、普通の生活を送っていたという。
ある晩のこと、ダヨは故人である姪(従姉妹という説もある:写真下)のビジョンを見るようになり、彼女の姿をスケッチした。またある時から故人の伯母の姿を見るようになり、その姿を描き出したこともあった。
▲ミリン・ダヨの死んだ従姉妹・Hanny Schaft
決定的な転機が訪れるのが、33歳になったばかりころ。
ダヨは自分の身体が、何者にも傷つけることのできない、"不死身"の身体になっていることに気がついたのである。
ダヨは手っ取り早く金を稼ぐために、毎晩パブを訪れ、人々に短剣を手渡し、それで自分の背中を突き刺させるという過激なパフォーマンスをはじめた。
ダヨは手っ取り早く金を稼ぐために、毎晩パブを訪れ、人々に短剣を手渡し、それで自分の背中を突き刺させるという過激なパフォーマンスをはじめた。
▲ミリン・ダヨがデザイン会社時代にデザインしたとされるもの
"世界は一つである"という彼の思想から、エスペラント語で"素晴らしい(=Wonderful)"を意味する"Mirin Dajo(ミリン・ダヨ)"をその名とした。
ミリン・ダヨの不思議な能力とは
ダヨはパフォーマンスを通じて、人々が現実として受容している以上のものが、確かに世界に存在することを、伝えたかったのだという。
神を信じるのならば、自分の身体を支配することが出来る。
はじめは誰も私の言葉を信じようとしないが、この不死身の身体を見て、人々は私の言葉を信じるのだ。”
(ミリン・ダヨの言葉より)
1948年5月11日。
▲ミリン・ダヨと助手のグルート
助手であったグルートによると、ダヨは不死身の身体を持っていただけでなく、遠隔視の能力や、他者を治癒する能力さえ持っていたという。
ダヨの治癒力を示すこんなエピソードもある。
ダヨが有名になるに連れ、彼のもとにはたくさんの人々が訪れ、病気の治癒を依頼するようになっていた。ある時オランダ人の男性が現われ、ダヨに頭痛を訴えた。
するとダヨは、造作もなく、彼の頭痛を取り除いたのだった。そこには長年、患者を診続けた医師も居合わせたが、患者が嘘のように元気になると、まるで逃げだすように、男性の家を立ち去ったという。一方で、ダヨのパフォーマンスを自己催眠であると分析した医学生もいた。しかし実際のところ、ダヨのパフォーマンスが自己催眠や集団催眠だけで説明出来るものでないことは、明らかだった。
医師たちのテストの結果
そんなミリン・ダヨが有名になっていくにつれ、懐疑的な医師が科学者たちがさっそく調査に名乗りをあげた。
医師たちのテストに対しても、ミリン・ダヨは協力的だったという。
彼は自分の能力を医師に認めさせたかったわけではなく、パフォーマンスを続けるための許可を、医師から取り付ける為にテストを受け続けたのだ。
▲ミリン・ダヨを報じる新聞
スイス人医師ハンス・ネジェリ・オスホードは1947年5月31日、ダヨをチューリッヒ・カントナル病院に招待し、彼の検査を行った。
ダヨがまず上着を脱ぐと、いつものように彼の助手が後ろから剣を突き刺した。剣はダヨの心臓、肺、腎臓を貫いた。しかし当然のように、ダヨの身体からは出血もなく、また痛みを感じる様子もなかったという。
▲実際のX線写真
続いて、医師が剣を突き刺した状態でのX線検査を申し入れると、ダヨは快く応じた。
そして、ダヨは何の苦もなく剣を刺したまま歩き始めたという。X線検査が行われた結果、ダヨの身体に剣が突き刺さっていることは、もはや疑いようのない事実であることが確認された。
謎の死の真相は?~なぜ彼は”鉄の釘”を食べたのか
▲ミリン・ダヨの家族写真(父母・二人の息子と)
助手・グルートによれば、ダヨが何かに直面するたび、”彼ら(グルートいわく、ダヨの”守護天使”たち)”がダヨに助言や指令を与えていたという。
ダヨはスイスの自宅で、いつものように"彼らの声"を聞いた。声は彼に、鉄の釘を食べるよう命じたという。
そして"彼ら"はその”修行”に医師も立ち会わせ、”麻酔をかけずに”、その釘を取り除いてもらうよう指示したという。
ダヨは迷うことなく、言われた通りに釘を食べた。しかし、それから二日後、医師は体内の釘を確認したが、”ダヨの意に逆らい”、麻酔をかけて釘を除去してしまったのだ。
それから約10日後のことだった。
そして"彼ら"はその”修行”に医師も立ち会わせ、”麻酔をかけずに”、その釘を取り除いてもらうよう指示したという。
ダヨは迷うことなく、言われた通りに釘を食べた。しかし、それから二日後、医師は体内の釘を確認したが、”ダヨの意に逆らい”、麻酔をかけて釘を除去してしまったのだ。
それから約10日後のことだった。
グルートがダヨの家に帰宅すると、ダヨはベッドに伏していたという。
グルートは、ダヨがしばし、こうした姿で瞑想を行っていたり、体外離脱していたことを知っていたから、脈があることだけを確かめ、ダヨをそっとしておくことにした。
しかし、1948年5月26日。グルートが様子を見に来ると、ダヨは既に息を引き取っていたという。
後の調査によれば、ダヨが死亡したのは、グルートが様子を見に訪れた、12時間前であったという。
しかし、1948年5月26日。グルートが様子を見に来ると、ダヨは既に息を引き取っていたという。
後の調査によれば、ダヨが死亡したのは、グルートが様子を見に訪れた、12時間前であったという。