【ヒトラーの演説指南役&メンタリスト】エリック・ヤン・ハヌッセンはなぜ暗殺されたのか?彼が最後に残した予言とは?

2019/09/11

20世紀 ドイツ ナチス フーディーニ 暗殺 死の謎 世界の謎 歴史ミステリー

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3月24日
1933年のこの日、謎の暗殺事件がベルリンで起きた。
殺されたのは、エリック・ヤン・ハヌッセン。

暗殺当時、その遺体は不明となっていたが1ヶ月以上経ってから発見され、埋葬されたという。

エリック・ヤン・ハヌッセンは、ヒトラーの演説指南役でもあり
ナチスの占星術師・メンタリストでもあったといわれている。

ハヌッセンは「ヒトラーが最も恐れた男」だった。

彼は暗殺されるまえにある予言を残していたと言われている。
果たして彼の死の真相は…?





奇術師 エリック・ヤン・ハヌッセンとは



1889年6月2日にエリック・ヤン・ハヌッセンはウィーンに生まれた。
本名はヘルマン・シュタインシュナイダー。両親ともユダヤ人で、父ジークフリートは旅役者、母アントニエ・ユリエは裕福な毛皮商の娘だった。

幼い頃に母を亡くし、父親の再婚相手と馴染めずにウィーンのカフェで奇術を学んだ。
趣味は小さいときから、移動式サーカスのマジックのパフォーマンスを見る事だったといわれている。

その後、第一次世界大戦に従軍したが、つまらない軍隊の生活に飽きた彼は軍人達に自分の奇術のパフォーマンスを見せ始めるようになった。

その奇術が好評となり、当時の軍隊の上官から「ヤン・エリック・ハヌッセン」という名前を与えられ、その後の舞台でもこの名前で出演するようになる。このことがきっかけで色んな軍人向けイベントに招かれるようになっていた。

あるとき、ホテルのロビーでたまたま出会った人に「明日の株価は?」と聞かれたハヌッセンは、「そんなことわかるわけない」と言いつつも、たまたま思いついた数字を答えたが、翌日、株価は、その数字の通りになったという。




このような出来事から、彼は自分に透視能力があり、自分は千里眼である、と主張し始めた。
彼の舞台はよりオカルト色が強いものとなり、透視やテレパシーなどを使った内容で人気をあつめ、社交界にも人脈を広げていったと言われている。

ヒトラーと出会ったのもこの頃だっとと言われている。

ヒトラーとの接近〜演説指南役として



1930年代にはハヌッセンの舞台は大盛況となり、非常に人気があった。
ハヌッセンはナチ党の支持者であり、アドルフ・ヒトラーとは1932年11月ドイツ国会選
以前から交流を持っていたといわれている。

1926年になるとハヌッセンは、ヒトラーの演説指南役までかって出た。
ヒトラーの全ての演説の準備はヤン・エリック・ハヌッセンの手によって行われたとされている。



ヒトラーは心理学に大変興味があり、いかに説得力のある身振りや仕草を見せるか、どのように演説すれば自分の影響力を広げることができるか、をはじめ、

相手のボディランゲージを観察することで相手の心を読み自分有利に動かすことができるか、などメンタリストの分野の心理学に大変こだわっていたという。


▲ヒトラーの背後で演説を見守るハヌッセン


こうして、ヒトラーの演説に対し、ボディ・ランゲージを指導すると同時に、ヒトラーお抱えの預言者としてもハヌッセンは活躍することとなる。また、ヨーゼフ・ゲッベルス、ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ、カール・エルンスト、などのナチ党幹部との間にも太いパイプを構築していった。

1943年にアメリカの戦略諜報局に所属する精神分析医ウォルター・ランガーがヒトラーの精神プロファイリングを行った際、ハヌッセンに関する記述も含まれており、「1920年代の早い時期に占星術師の"ハミッセン"という人物からヒトラーは演説や心理学の手ほどきを受けた。彼はヒトラーに集会演説の重要性を始め、様々な指導を行った」と記されている。


ハヌッセンがヒトラーに教えた人心掌握術とは

ハヌッセンがヒトラーに教えた人心掌握術の数々の中で、相手の判断力を狂わせる技術が「ジェスチャー」だったと言われている。
誰かの話す内容を言葉として聞いている時、言葉として耳に入ってくる情報のほかに、目に見える形で大量の情報が、外見・姿勢・体の動きを通じて送られてくるという。

アメリカで行われた調査では、コミュニケーションの半分以上が”言葉に頼らずに”行われているという調査結果も出たという。
ヒトラーもハヌッセンの指導のもと、このような「大げさすぎるジェスチャー」を民衆に向かって演説する際に多用していた。

また、ヒトラーは演説をする時間帯にも非常に気を配っていたといわれている。
当時の権力者の演説は、朝や昼まえなどの時間帯が中心だったが、ヒトラーが演説のために民衆を集めたのは常に夕暮れ時だった。

夕暮れになって、人々が仕事を終え、疲れて判断力が鈍り、心のバリアも弱まっているときに、ヒトラーは「簡単で強いスローガン」と「大げさすぎるジェスチャ」を織り交ぜた長時間の演説を繰り返した。
こうすることによって、民衆の心をつかみ、コントロールしていったと言われているのだ。



実は科学的にも、人体は夕方以降、活動能力が一時的に停滞しやすいことがわかっている。
とくに夕食前の時間帯は疲労がピークを迎え、思考力が低下する。
これは外界の明暗に関する希少変化やボディタイム(人間の心と体を司るリズム。バイオリズム)などが組み合わさり、起こる現象だ。

そのため、夕暮れ時に交渉事を行うと成功率が高くなるといわれており、「黄昏時効果(トワイライト・エフェクト)」という名で、ビジネスにおいて今も応用されているという。

これらすべての指導をしたのが、ハヌッセンだと言われているのだ。

預言者として活動を始める



1931年にハヌッセンは、ブレスラウの印刷会社を購入し、オカルト雑誌『ハヌッセン・マガジン』『ブンテ・ボッヘンシャウ』を刊行する。この雑誌の印税や舞台で得た収入で屋敷を購入・改築し、この屋敷は人々から「オカルト宮殿」と呼ばれるようになった。

彼の「オカルト宮殿」の一室では交霊会が行われ、大きな円卓の周りに座り下から照らされるガラスに掌を置いた招待客にハヌッセンが預言を伝えるイベント(写真上)で人気を集めた。

ドイツ国会議事堂放火事件を予言

▲ドイツ国会議事堂放火事件

1933年1月1日には、ヒトラーに“魔力を持つ植物”である「マンドラゴラ」を送り、「近々ヒトラーが首相に就任する」と予言し、この予言は、1月30日にヒトラーが首相に任命されたことで、見事に的中した。

また、同年2月のある夜、ハヌッセンは少人数の信奉者を集めた会合で、「巨大な建物が火に包まれる」と予言した。すると2月27日、ベルリンの国会議事堂が何者かに放火された。(写真上)またもや、ハヌッセンの予言が的中したのだ。


この放火事件の予言的中により、さらに注目を集めたが、
国会議事堂放火事件に関しては、放火犯とされたマリヌス・ファン・デア・ルッベに、ハヌッセンが催眠術を掛け犯行を行わせたのではないか、という奇説まで存在している。


謎の暗殺での死

▲ハヌッセン

ナチスは、ハヌッセンをはじめとするオカルティストたちを政権獲得のための大衆操作に利用したにも関わらず、彼らオカルティストたちを次第に危険視するようになった。

ハヌッセンは、ナチ党政権が樹立された際に「オカルト省」なるものを設立し、その大臣に就任して国家を動かすつもりだったと言われている。

しかし、ナチ党の権力掌握後の1933年3月25日、突撃隊によってハヌッセンは妻と共にベルリンで何者かに連れ去られ、4月7日に射殺死体となって発見された。遺体は郊外のシュターンスドルフに埋葬されたという。

暗殺の理由は、ヒトラーがハヌッセンに危機感を抱くようになったという説が一般的だが、ゲッベルスとヘルマン・ゲーリングの権力争いに巻き込まれたという説もある。

また、一説には、ハヌッセンの出自が”ユダヤ人”であったことを知ったヒトラーが激怒して暗殺を指令したとも言われている。

ハヌッセンの最後の予言とは?

▲マンドラゴラ

1933年に、彼がヒトラーに送ったマンドラゴラには、ある予言が付されていた。
そこには、「第三帝国は滅ぶが、マンドラゴラだけは残る」と秘かに記されていたという。

そして実際、第二次世界大戦でナチス・ドイツは崩壊したが、ハヌッセンのマンドラゴラだけは、瓦礫と化した首相官邸から掘り出されたと伝えられている。

果たして真相は?


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