なぜか50年後に現実となった事件の真相とは?!エドガー・アラン・ポーの書いた小説の『リチャード・パーカーの死』は予言によるものだった?!

2019/10/12

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エドガー・アラン・ポー
7月5日
1884年のこの日、ある一隻のイギリス船籍の船が、喜望峰から1600マイル離れた公海上で難破するという事件がおきた。

この事件は、その裁判において後に「刑法」の”ある重要な法理”を確立したといわれる、大事件となった。
しかし、この遭難事件は、それだけでは終わらなかった。

実はこの事件は、その50年も前にある一人の小説家の小説によって予言されていたというのだ。
その小説家の名前は、”エドガー・アラン・ポー”。
シャーロック・ホームズを生み出しコナン・ドイルとともに、現代推理小説の生みの親とも言われる小説家だ。

彼はなぜ、50年も前にその事件の小説を書くことができたのか?
また、現代の刑法にも多大な影響を与えた「ミニョネット号事件」とは?






「ミニョネット号事件」~現代刑法に影響を与えた大事件


ミニョネット号事件
▲実際の事件を報じたもの

1884年7月5日、イギリスからオーストラリアに向けて航行していたイギリス船籍のヨット「ミニョネット号(Mignonette)」は、喜望峰から1600マイル(約1800キロメートル)離れた公海上で難破した。

船長、船員2人、給仕の少年の合計4人の乗組員は救命艇で脱出に成功したが、艇内にはカブの缶詰2個以外、食料や水が搭載されておらず、雨水を採取したり漂流5日目に捕まえたウミガメなどを食いつなぐも漂流18日目には食料は完全に底をついた。

19日目、船長は、くじ引きで仲間のためにその身を捧げるものを決めようとしたが、船員の1人が反対した為、中止された。

しかし20日目、船員の中で家族もなく年少者であった給仕のリチャード・パーカー(17歳)が渇きのあまり海水を飲んで虚脱状態に陥った。

船長は彼を殺害、血で渇きを癒し、死体を残った3人の食料にしたのである。


生き延びるために犯した殺人は、罪に問えるのか?


ミニョネット号の乗組員が難破していたとされる救命艇
▲ミニョネット号の乗組員が難破していたとされる救命艇



この「ミニョネット号事件」は、一見普通の難破事件のようだったが、残された4人の内3人が、”実質的に一人を殺害し、その遺体を食べて生き延びた”、という点が、特異だった。

事実、ミニョネット号は、遭難24日目に残った船員3名がドイツ船に救助され生還したが、母国に送還されると「殺人罪」で拘束された。

しかし彼らは人肉を得るためパーカーを殺害したのは事実だが、そうしなければ彼ら全員が死亡していたのは確実であり、仮にパーカーが死亡するのを待っていたら、その血は凝固してすすることはできず、自分たちも死んでいたと主張したのだ。

Edgar Allan Poe

最初の裁判の陪審員は”違法性があるか否かを判断できない”と評決したため、イギリス高等法院が緊急避難か否かを自ら判断することになった。

この事案に対して、イギリス高等法院はこれを緊急避難と認めることは法律と道徳から完全に乖離していて肯定できないとし、謀殺罪として「死刑」が宣告された。

しかし、世論は無罪が妥当との意見が多数であったため、当時の国家元首であったヴィクトリア女王から特赦され「禁固6ヶ月」に減刑された。


ここに殺人を犯しても、減刑されるという、「緊急避難」という法理が確立することになる。
(なお、日本の刑法では「緊急避難」に該当すると判断された場合、罪に問われない)

これはもともと、古代ギリシアの哲学者・カルネアデスが提起していた問題でもあった。



古代ギリシアの問題・「カルネアデスの板」とは


古代ギリシアの哲学者・カルネアデス
▲古代ギリシアの哲学者・カルネアデス


カルネアデスは、アテナイのアカデメイアで哲学を学んだ古代ギリシアの哲学者だ。
彼はある一つの問題提起を行ったことで知られている。

それが「カルネアデスの板」だ。


舞台は紀元前2世紀のギリシア。

一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。

するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。
その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。

「緊急避難」の例として、現代でもしばしば引用される寓話である。





50年前に書かれていた”予言小説”とは


エドガー・アラン・ポー
▲エドガー・アラン・ポー


このように、のちの刑法にも多大な影響を与えたと言われるこの事件は、
実はもう一つ逸話が残っている。


というのも、この事件の起こる約50年前の1837年に、そっくりのシチュエーションの小説が
発表されていたということがわかったのである。

それが、エドガー・アラン・ポーによる「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」という小説だった。



エドガー・アラン・ポーによる唯一の長編小説として知られ、未完とも取れるようなあいまいな結末を持つとされる作品だ。

内容は、広大な海の真ん中で、4人の男たちが遭難し、ボートで漂流するはめになる。
照りつける太陽は厳しく、しかも手持ちの食糧はすぐに底をついた。やがて、飢えと渇きの極限状態が4人を襲う。ここで彼らは、生き残るために恐ろしい選択をする。

「これからクジをひいて、当たった人間を殺し、そいつを残りの3人が食べることにしたらどうだ」。

もうだれにも異論はなかった。その結果、あわれないけにえとしてキャビン・ボーイが選ばれた。

彼はその場で刺し殺され、仲間の犠牲となってしまうのだった。

50年前に書かれたはずの小説には、まるでその50年後に実際に起きた「ミニョネット号事件」そのものの概要が描かれているようである。

でも、この偶然の一致はこれだけではないのだ。
生贄となった少年の名前がどちらも「リチャード・パーカー」なのである。

”偶然の一致”が判明した理由


▲「ミニョネット号事件」で亡くなったリチャード・パーカーの実際の墓

実は1884年に「ミニョネット号事件」に関する裁判が閉かれた際、実際にポーの小説と事件の関連性が収り沙汰されていた。

しかし、教育水準がきわめて低かった犯人たちはポーの名前さえ知らなかった。
検察側も弁護側も事実と小説の完全な一致に驚愕を隠せなかったが、船員たちがポーの名前さえ知らない以上、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』について討論してもまったくの無駄だった。

この事件がその後、あらためて脚光を浴びるようになったのには、実はこんな逸話がある。

「ミニョネット号事件」で実際に食べられたリチャード・パーカーの曾孫にあたるナイジェル・パーカーが、ロンドンの『サンデー・タイムズ』主催による「"偶然の一致"体験談コンテスト」に応募したのだ。


彼は、自分の先祖であるリチャード・パーカーが実際に「ミニョネット号事件」によって殺害された事実と、その50年前に書かれたエドガー・アラン・ポーのそっくりな小説(しかも犠牲者の名前が同じ「リチャード・パーカー」)、について投稿し、見事一位に選ばれ、賞金100ポンドを獲得した。

このことによって、今日この”奇妙な一致”は世に知られることになったのである。


エドガー・アラン・ポーは何かを予知していたのか。
はたして真相は…?





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