1912年のこの日の真夜中、タイタニック号は海に沈んだ。
イギリスの客船タイタニック号 (Titanic)は、 当時世界最大の豪華客船の一つとして建造され、1912年4月10日、イギリスのサザンプトンを出港し、 アメリカのニューヨークに向けて処女航海に出た。
”
その途中の14日の真夜中、ニューファウンドランド沖で氷山に衝突し、2時間40分で沈没したと言われている。 乗船者2208名の中、1517人が死者となり、世界最大の海難事故となった。
その途中の14日の真夜中、ニューファウンドランド沖で氷山に衝突し、2時間40分で沈没したと言われている。 乗船者2208名の中、1517人が死者となり、世界最大の海難事故となった。
しかし、このタイタニック号の沈没は、はるか前より”予言”されていたという。
また、実は沈んだ船は”タイタニック号”ではなかったという噂もある。
果たして真相は・・・?
目次
世界最大の豪華客船”タイタニック号”
▲タイタニック号の出航の様子(映画「タイタニック」より)
1912年4月10日、水曜日のさわやかに晴れ上がった昼下がり、イギリス、サウサンプトン港から巨大な客船が処女航海に乗り出そうとしていた。
全長は268メートル、基準排水量4万6千トン、頂上部分までの高さ51メートル、これまでつくられたどの船よりも桁違いに大きく、またどの船よりも一番豪華で目を見張る最新の設備を持っていた。
その巨船の名は”タイタニック号”。ホワイト・スターライン社の世界に誇る豪華客船だ。
耐水構造も完璧で、船底は2重構造に補強されており、その上、船体は16区画に仕切られていた。
しかも、それぞれの通路には自動開閉する防水扉を備え、1度に4区画まで浸水しても沈まないように設計されていた。
耐水構造も完璧で、船底は2重構造に補強されており、その上、船体は16区画に仕切られていた。
しかも、それぞれの通路には自動開閉する防水扉を備え、1度に4区画まで浸水しても沈まないように設計されていた。
▲一等の大広間に続く優雅な大階段
世界で初めてのプール付きの船であり、冷却室やサウナ室まで完備されていた。
各部屋はそれぞれテーマがによって、個性的につくられており、寝室ともなると、”ジョージア王朝風”や”チューダー王朝風”など雰囲気も異なり、仕上げから木の材質まで違って作られていたほどのこだわりようだったという。
▲一等サロン内部の様子
タイタニック号の内部では、船は3つのクラスに分けられ、客の行き来は厳重に禁止されていた。
一等船客の数は325名、名だたる大富豪ばかりで、一等のチケットは8日間の船旅で約550万円。
とりわけ2部屋しかない特別スイートルームの費用は、1千万円だったと言われている。
二等船客は285名、一等よりもやや落ちるが、それでも200万円もした。
乗客の大多数を占める3等客は706名で費用は5万円前後。三等客は船底近くの薄暗い相部屋に押し込められていた。
そのほか、甲板、機関、事務などを担当する船の乗組員は880名。
つまり船客と乗組員、合わせて2207名がタイタニック号に乗り込んでいたのである。
4月14日の真夜中に何が起きたのか?
その日、タイタニック号は、朝から、付近を通る他の船から何度も 「氷山多し」、 あるいは 「氷原あり」 との無線連絡を受け取っていたという。
その回数は、判明したものだけでも7回にも及んだ。
しかし、それらの情報は全く無視された。 船長以下の航海士たちに、小さな氷山の一つや二つあろうとも、 この巨大な最新型の客船にとって何程のこともないと云う思いと、 自分たちの航海技術についての過大な思い上がりがあったため、と云われている。
▲エドワード・スミス船長
だが、これは不運の始まりだった。
氷山は大部分が海中に潜んでおり、夜になればことさら発見しにくい目標になる。とりわけその夜に限って、月もなく波も穏やかで静かな夜であった。
遠方から氷山を発見するには難しい条件が重なり過ぎていた。
▲救命ボートで助けを待つ人々
午後11時過ぎ、いきなり前方の暗い海上にヌッと大きな氷山のシルエットが姿をあらわした。
マストの上の見張り員は、かなり接近してからの発見に動揺した声で叫び、警報のベルが鳴り響く。艦橋にいた一等航海士はただちに転舵を命令した。
しかし、舵は間に合わず、タイタニックは氷山に衝突し、2時間40分後、完全に海の中へと消えていった。
タイタニックの沈没の予言小説・「フューティリティ」
▲タイタニック号沈没を伝える当時の新聞
タイタニック号沈没の悲劇のあと、ある一つの小説が急に注目されることになる。
この惨事とそっくりな内容の小説を、14年前の1898年に、イギリスの作家モーガン・ロバートソンが『フューティリティ~タイタン号の遭難』という題名で発表していたのだ。
▲「フューティリティ」
それは、絶対に沈没しないとされた豪華船タイタン号が大西洋を行く処女航海で氷山に衝突するという物語で、タイタン号の排水量は7万5000トン、全長約240m、プロペラ数3個、救命ボート24隻を積み、乗客300名を乗せて、4月にサザンプトン港から出港し、速度25ノットで氷山に衝突し、多数の犠牲者が出るという筋書きだった。
小説に出てくるタイタン号の大きさや救命ボートの数、衝突時の速度等も、実際のタイタニック号と非常に近い設定だった。
まさに、後に現実に起こる大事故そのままの内容で、この小説は、20世紀最大の予言小説と言われた。元々商船乗組員としての経歴の持ち主であった彼は、この小説で、豪華客船が大型化・高速化していく現状を憂いていたとされている。
予言小説の真相とは~はたして本当に予言だったのか?
実は、この「タイタニック号の沈没を予言していた小説」には後日談がある。
この小説がタイタニック号の事故が起こる14年も前に発表されていて、ロバートソンの作品『フューティリティ』が1898年に刊行されていたのは、紛れもない事実である。
しかし、"売れてる作家"とは言い難かったモーガン・アンドリュー・ロバートソンが1898年に書いた中編小説『フューティリティ』は、 それから14年後、つまり、タイタニック号の事故が起きた直後の1912年に、 『フューティリティ、もしくは、タイタン号の遭難( Futility, or The Wreck of the Titan. )』とタイトルを変えて にわかに再刊行されていたのだ。
その際に行なわれたのはタイトルの変更だけではなかった。小説の内容にもいくつかの変更が行なわれ、項目数も増えていたという。
作者のロバートソンは、その後スランプに陥り、極貧の中でピストル自殺を遂げてしまったという。
タイタニックをめぐる不吉な噂
小説はともかく、実はタイタニックにはその他にも、不吉な影がつきまとっていたとされている。
「夢で沈没するのを見た」と友人や家族から乗船を引きとめられた者、理由もなく不安にとらわれて途中で下船してしまう者など、一部の人間は早くからこの不吉な影を察知していたというのだ。
4月10日にサザンプトンを出航したタイタニック号は、同月11日にアイルランドのクィーンズタウン港に入港した。
ここで数人の乗客が、タイタニック号の煙突のひとつから、ススだらけの黒い男の顔がのぞいているのを見たと言って下船する騒ぎが起きている。一等船客7名が、わずか1日の航海でタイタニック号から降りてしまったのだ。
”保険金詐欺の噂”~沈んだのは実はタイタニックではなかった?
▲ホワイト・スター・ライン社のポスター
途中で下船した人が多かった理由として、ある説が唱えられている。
実は、タイタニック号には、姉妹船の「オリンピック号」が存在していた。 オリンピック号は、外観や内装はほぼ同じ船であった。
姉妹船であるオリンピック号はタイタニック号の就航2ヶ月前に軍艦ホークと接触事故を起こしていた。 その為、耐久性能が下がって保険が掛けられなかったという。
▲軍艦ホークと事故を起こしたオリンピック号
同じ頃、タイタニック号の船主であるホワイト・スター・ライン社は大型客船・二隻を造船したことにより資金繰りが悪化して経営難に陥っていた。
「絶対に沈まない船」と豪語していたのにも関わらず、タイタニック号には何故か多額の保険金が掛けられていた。それは、アメリカの保険会社だけで500万ドル(現在の価値で150億円)これにイギリスの保険を併せると200万ポンド(300~390億円以上)という不自然なほど高額なものだったと言われている。
これらのことから、実は同社は酷似しているタイタニック号とオリンピック号をすり替え、保険金を騙し取ろうと考えたと言われているのだ。
すり替えは至って簡単で船名を上書きするだけだったと言われている。(下記2写真比較)
▲「タイタニック号」と「オリンピック号」
タイタニック号に乗船したホワイト・スター・ライン社の社長J・ブルース・イズメイは船主だったが、彼は不自然な行動を繰り返していた。
無理に「速度を上げろ」と言ったり、氷山警告を無視して警告自体を隠した。これは実際には、氷山に船を激突させるためだったというのだ。
▲ブルース・イズメイ
イズメイは船が沈み始めてボートが下ろされる寸前に、客になりすましてこっそりと飛び乗ったと言われている。
ボートに乗っていた他の生存者は、タイタニック号が沈んでいく不気味な光景を恐怖を抱きながら見つめていたが、イズメイは沈没船に背を向けていた。
その後、他の生存者が裁判所の審問や回想録などで生還の様子を証言したにもかかわらず、イズメイは沈黙を守り通したという。
なぜ、J・P・モルガンは乗船しなかったのか?
▲J・P・モルガン
また、この説を裏付けるもう一人の人物がいる。それがJ・P・モルガンだ。
彼は米国の5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者で、タイタニック号の実質的なオーナーだった。
しかし、オーナーのJ・P・モルガンは、自分の身の安全を考え、乗船をキャンセルしたと言われている。
さらに、出航時のタイタニック号の写真と完成直後のタイタニック号では、
舷側の窓の数が異なることが確認されており、
また事故後のオリンピック号の船名に修正が加えられていることも確認されているという。
しかも、修正前の文字は「TITANIC」となっていたというのだ。
ホワイト・スター・ライン社はタイタニック沈没から、わずか2週間後という異例の早さで保険金を受け取ったといわれている。
果たして真相は…?