1834年のこの日、ニューオーリンズのある邸宅で火災が発生した。
豪華な内装の3階建てマンションは、当時その美貌と優雅な立ち居振る舞いで注目を集めていた貴婦人とその夫の邸宅だった。
しかしこの火災の後、この建物内で起きていた誰もが疑うほどの残虐な恐ろしい出来事が明らかになるのである。
後年、この屋敷はアメリカで指おりの”幽霊屋敷”として有名になる。
果たして、このマンションで何が一体起こっていたのか?
ニューオーリンズの『幽霊屋敷』
▲当時のLaLaurieハウス
”ジャズの街”として有名なニューオリンズには心霊・ゴーストスポットとして有名な所が沢山あるが、そのうちの一つとして名高いこの建物は、「LaLaurie(ラローリー)マンション」という名前で知られている。
1831年9月12日に土地を購入したある夫婦が、翌1832年の春にニューオリンズの「ロイヤルストリート1149番」に3階建ての40室もあるマンションを建設した。
しかし、ある時期からこのマンションの周辺では「夜になると奴隷の幽霊が出る」という噂がまことしやかに囁かれるようになった。
幽霊は腹から内蔵をぶら下げて歩く者や、目や口が黒糸で綺麗に縫われた者など、見るに耐えない恐ろしい姿をしてたという。
ラローリーマンションの貴婦人
▲デルフィーン・ラローリー
当時「ラローリーマンション」には、その美貌で有名だった妻デルフィーン・ラローリー(写真上)と、その夫レナード・ルイス・ニコラス・ラローリー博士が住んでいた。
妻のデルフィーン・ラローリーは、1775年ころ(1787年という説もあり)、5人兄弟(もしくは姉妹)のうちの一人として生まれたのだという。
生まれた時の名前はマリー・デルフィーン・マカーティだった。
マカーティ家は1730年頃に先祖(デルフィーンの祖父)がアイルランドからやってきた、ニューオーリンズ屈指の名家である。
彼女の家族は政治的な権力を有していたため、とても裕福で、家族には軍将校・プランター・商人・市長などがおり、奴隷もたくさん雇っていた。
知的で美人と有名だったデルフィーンは、結婚を3度も経験していた。
▲マダム・ラローリー
最初の結婚は1800年6月11日。
デルフィーンは当時まだ14歳だった。
セントルイス大聖堂で総領事のドン・ラモン・ロペス・イ・アングロ(35歳)と結婚。
しかし、1804年にデルフィーンはドン·ラモンとスペインへ旅行へ行ったが、マドリードへの旅路のハバナでドン・ラモンは何故か謎の死を遂げた。
デルフィーンは、ドン・ラモンが死んだ後、ニューオリンズに戻る航海中に子供を2人出産したという。
次に結婚したのは著名な銀行家であり、商人でもあり、弁護士だったジャン・ブランクだった。
彼とは1808年に結婚しているが。何故かその後、彼も謎の死を遂げている。
1825年6月12日に最後の夫である年下のレナード・ルイス・ニコラス・ラローリー医師と結婚。
デルフィーンは当時41歳だった。
3度目の結婚をしてから9年間は、デルフィーンにとって華々しい日々がつづいたという。舞踏会や音楽夜会、仮面舞踏会、などが催され、いつも友人たちに囲まれながら過ごす日々を送っていた。
そして、1831年。
彼らは「ラローリーマンション」を建設する。その直後から、そのマンションには幽霊の噂が立ち始めた。
幽霊屋敷の火事
1834年4月10日。
朝に突然ラローリーマンションは出火した。
毎晩のように上流のゲストを招いてカクテル・パーティを開いていた名士は、突然災難にみまわれたのだ。キッチンから出火した火と煙は瞬く間に豪邸全体を包んだのである。
駆けつけた消防隊員の前に、一人の奴隷が決死の形相で駆け出してきた。
彼(彼女という説もあり)は自分が邸宅に火をつけたと告げたうえで、消防隊員に「屋根裏部屋を開けて見てくれ」と懇願した。
不審に思った消防隊は屋根裏部屋に突入、そして驚くべき事実を発見することになる。
そこは黒人奴隷たちを拷問するための部屋だったのだ。
実は、火事が発生する前に、重大な事件が目撃されていたのだという。
隣の家の女性がたまたまラローリー邸を眺めていると、女主人に追いかけられた奴隷の少女が屋根の上まで逃げ、そこから墜落するのを見てしまっていたのだ。
実は、火事が発生する前に、重大な事件が目撃されていたのだという。
隣の家の女性がたまたまラローリー邸を眺めていると、女主人に追いかけられた奴隷の少女が屋根の上まで逃げ、そこから墜落するのを見てしまっていたのだ。
屋根裏部屋に入ったら二度と出てこれない
デルフィーンは邸宅の屋根裏に秘密の部屋を持っており、毎夜その部屋に奴隷を連れて入っていく。夜通し絶叫のような声が微かに聞こえたとも言われている。
部屋からデルフィーンが出てくる時、一緒だった筈の奴隷の姿が見当たらなくなるのだという。
デルフィーンには別の顔があった。
多くの黒人奴隷を虐待・拷問のうえ殺害していたというのだ。マダム・ラローリー(デルフィーン)は連続殺人犯だったのだ。
火事の後には・・・
しかし、程なく手放している。幽霊を見たというのだ。
その後、アパートに改装されたが、その際、剥がされた床板の下から生き埋めにされたと思われる奴隷の遺体が75体も発見されたという。
また一時期、徹底的にきれいにされ、女学校として使用されていた時期もあった。
さらにイタリア人移民の家族30世帯が、さまざまなものを赤くペイントして暮らしていた時期もあったという。しかし、結論としては幽霊をみて彼らは引っ越した。
▲現在のラローリーマンション
また、最近ではすっかり呪いの家として有名になったため、ハリウッド俳優のニコラス・ケイジが一時期所有していた。アメリカンホラー小説を書くためだめだったらしい。
しかし、後日「あの家で眠るのは嫌だった」と告白し、マンションでは安眠できなかったとしてマンションの売却をすましたという。
今も絶えない幽霊譚
このマンションは、現在は「いわくつきの呪いの屋敷」として観光名所ともなっているが、現在でも幽霊目撃談が絶えないという。
常に5・6人の幽霊がいるとも言われている。
幽霊として目撃されるのは、当然黒人の幽霊で、床の上を死体がひきずられていく音が聞こえることもあったという。
また、シャンデリアが落下して、金属とガラスが砕ける大きな音がすることもあった。
暗闇やだれも使っていない荒れ果てた台所から黒人の身の毛もよだつ話し声が聞こえることもあったり、中庭から叫び声が聞こえることもあったという。
また、床の下からむせび泣きや祈りの声、ドンドンと叩く音が流れてくることもあるという。
その後のマダム・ラローリーの行方は、実は判明している。
彼女はパリに逃げ、それなりに裕福な生活を送ることはできたようだが、奴隷を虐待していたという噂はヨーロッパにまでついてまわり、世間から白眼視されつづけるというつらい状態からは脱却できなかった。
彼女は1849年12月7日にパリで病気により、永眠したと言われている。
また、シャンデリアが落下して、金属とガラスが砕ける大きな音がすることもあった。
暗闇やだれも使っていない荒れ果てた台所から黒人の身の毛もよだつ話し声が聞こえることもあったり、中庭から叫び声が聞こえることもあったという。
また、床の下からむせび泣きや祈りの声、ドンドンと叩く音が流れてくることもあるという。
その後のマダム・ラローリーの行方は、実は判明している。
彼女はパリに逃げ、それなりに裕福な生活を送ることはできたようだが、奴隷を虐待していたという噂はヨーロッパにまでついてまわり、世間から白眼視されつづけるというつらい状態からは脱却できなかった。
彼女は1849年12月7日にパリで病気により、永眠したと言われている。